お供えとお下がり〜フードバンクという「壇」

(2013年12月15日 更新)

フードバンクという仕組みをご存知だろうか。アメリカに始まった生活困窮者への食糧支援をいうが、今日、應典院で「フードバンク山梨」の米山けい子さんの講演があった。
豊かな国には、膨大な処分品がある。賞味期限切れやパッケージの破損など、品質には問題ないが処分される食品を、企業から寄付を受けて、困窮者へ提供する仕組みだ。東日本大震災の被災地でも、その配給ノウハウは遺憾なく発揮され注目された。

話は変わる。パドマ幼稚園では各教室に仏壇があって、そこに毎日お供えする当番がいる。お家から果物とかを持参してもらうのだが、子どもは不思議でならない。
「園長先生、仏様に昨日リンゴをお供えしたのに、今日見ても何も減っていませんでした。仏さまは食べたのかなぁ」
素朴な質問に、私はこう応える。
「仏様はリンゴではなくて、きみがお供えしてくれたその気持ちをいただいてくださったのだよ。ありがとうって」
古来から人は神仏に飲食(おんじき)を供え、そしてお下がりをいただく。形は同じリンゴだが一旦、壇や棚に供えればそれは違ったリンゴになる。お供えし た段階で、リンゴは神仏のものとなり、われわれに「お下がり」として授けられるのだ。うちのお寺では、それを復興支援マーケットや釜ヶ崎支援に届けたりも する。
不思議に思うのだが、「お下がり」には「客に出した飲食の残り物」というもうひとつの意味がある。残飯ではない。そういうもてなしの余韻を、当事者であるわれわれがいただくのだ。神仏の「お下がり」と同じ表現をとるのはなぜだろう。

フードバンクに話を戻す。社会システムとしていえば、生活支援の中間マネジメントをとっているわけだが、食品を提供する企業にすれば、イメージアップのために直接支援してもいいはずだ。NPOという未知の機関に委ねるリスクも感じるだろう。
それでも、大量の食品がフードバンクのNPOに集まるのは、そこに「余り物」を「届け物」に変換する浄化作用があるからではないか。フードバンクという社会の「壇」に食糧をお供えしている感覚に近い。
また、もっと言えば、ここで「食」ははじめて生命維持という根源の力を発現させるからともいえる。提供を受ける生活困窮者には、高齢者世帯や子どもを抱 えた母子家庭が多いという。スーパーやコンビニでお目にかかるおなじみの食品(品=商品)が、ここでは文字通り家族の生命をつなぐ食糧(糧=かて)となる のだ。

一日に一度しか食べられない子どもがいる。豆腐一丁しか食べさせられない、という親の悲鳴。家族だけの自助努力だけではどうにもならない。NPOの役割をお寺が担うことや、協働することも可能だ。
「お供え」と「お下がり」の伝統を、宗教者が介在して届けられないか。


フードバンク山梨