宗派を超えてお坊さんたちが集まり、「法話」でナンバーワンを目指す「H1法話グランプリ」が話題です。タイトルはテレビ番組みたいなノリですが、内容は至って真面目なもので、今年で3回目、各宗派の若手僧侶が順番に法話を説いて切磋琢磨しています。コロナの影響もあってか法話を聴きたいという人は増えているとか。
法話とは辞書には「仏教の教えや信仰のあり方を説く」とあります。昔であれば薬師寺の高田好胤さんとか、現代では瀬戸内寂聴さんなんかが知られますが、知名度はなくとも全国津々浦々お寺で熱心に語る僧侶がたくさんいます。今時はスライドを使ったり、ギター演奏しながらというスタイルもあるらしい。時代の気風を感じます。
H1グランプリの委員長である思想家の内田樹さんは、「宗教的なものに触れる機会としての法話に可能性を感じる」と言います(毎日新聞6月7日)。「日常が脱宗教化することで、心の支えがどんどんもろくなっている」とも。僧侶としてはうれしいコメントですが、さて現代の法話がどれほどの実効があるのか、私にはよくわかりません。中には、年忌法要の決まり事、話好きの住職のおつきあい程度にお考えの人もいるかもしれません。
私も法話をしますが、教えは大事ではあるが、すべてではないと考えています。教えの正確な理解や解釈を優先するならば、自ずと講義や学習に近づいていきます。それが必要な場面もあるでしょうが、ほとんどの法話がお葬式やご法事の後に語られるものであれば、教義よりもまず相手の方の心に向ける言葉でなければなりません。そして、その言葉はやはり身近な死者へ手向けられるものでしょう。知識とは異次元で語られるべきなのです。
聴いてくださる方の世代や関心によって内容をアレンジしたりしますが、亡くなった方への追慕や敬意、また残された私たちとのつながりを強調するように心がけています。法話は死者と生者の関係を言葉で紡ぐものではないでしょうか。
「死者は常に我々の傍らにあると伝え、どう関わりを持っていくかの手立てをきちんと教える。それが、今とても大事な仕事です」(内田さん)
私の法話がそのようになっているかどうかは別にして、この言葉を肝に命じておきたいと思うのです。