わたしを束ねないで。新川和江さん逝く。

(2024年09月05日 更新)

8月10日、戦後を代表する詩人の新川和江さんが亡くなりました。95歳でした。女性の詩がまだ下に見られていた時代から、自分の人生と照らしながら、さまざまな作品をコツコツと書き上げてこられました。教科書で出会った人も多いことでしょう。

子どもについて、たくさんの名詩を残しています。

ちいさな子どもが/クスッと笑うと/草の実がぱちん!とはじけます
クスクスッと笑うと/木の葉がゆれて/ひかりが こぼれますクスクスクスッと笑うと/もう誰だって
いっしょに笑わずにはいられない/朝の空気も 牛乳びんも
石段も 風も 遠くの海も(子どもが笑うと)

 

新川さんは、戦前、大家・西条八十に師事しましたが、そのD N Aを受け継いだようにリリカルに子どもの情景を描きつづけました。
女性にしか書けない詩もありました。出産にまつわるこういう詩もあります。

<わたしが生んだ!>
どんな詩人の百行も/どんな役者の名台詞も/このひとことには/適いますまい

 

私の友人の母親は、「出産とは、自分が哺乳類であると自覚させらる経験」といいます。古臭い表現ですが、「身悶えしながら」「命をかけて行う」もの。どれほど医療や科学が発展しても、また性差が低くなった時代であっても、この身体感、達成感は男性には得られません。

そういった母性の豊かさを歌う詩篇に交えて、有名な「わたしを束ねないで」が、鮮烈に、また深々と心に残ります。初読した際に、衝撃を受けた人は少なくないのではないでしょうか。私もそうでした。長くなりますが、全文引用します。

わたしを束(たば)ねないで/あらせいとうの花のように
白い葱(ねぎ)のように/束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす/見渡すかぎりの金色(こんじき)の稲穂

わたしを止(と)めないで/標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように/止めないでください

わたしは羽撃(はばた)き/こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音

わたしを注(つ)がないで/日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように/注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちてくる/苦い潮(うしお) 

ふちのない水

わたしを名付けないで/娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
坐(すわり)きりにさせないでください

わたしは風/りんごの木と/泉のありかを知っている風

わたしを区切らないで
,(コンマ)や.(ピリオド)いくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終わりのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡(ひろ)がっていく 一行の詩

 

「自分らしく生きたい」と誰もが望みます。しかし、「自分らしさ」とは何かを深く問いかける時もなく、人生において娘であったり、母であったり、妻として、いろいろな肩書きがかぶさってきます。「母とはこういうものだ」「母親らしくしなさい」等々、外から要請された役割を、私らしく演じようとする。理想と現実のギャップに苛まれることもあるでしょう。それが本当の私なのか。うちとそとが葛藤しながら、せめぎ合う。これは、現代では女性、男性の違いなく共通する感覚なのかもしれません。

もう半世紀ほど前に発表された詩ですから、そこは勘案する必要はありますが、しかし今なお古びない名作は、私たちに「自分らしく生きること」の尊さを語りかけます。「自分らしさ」とは、自分が主人公であり、自分が主体なのだと。

それは、学業においてなのか、仕事なのか、家族なのか、いやあそびにおいてなのか、わからない。「自分らしさ」を探し出す長い旅が、私の生きる意味なのかもしれません。

束ねられない、止められない。それでも、自分の可能性を信じていこう。20代でこの詩に巡り合った私も、そういう勇気をもらったのでした。

ご冥福を祈りましょう。南無阿弥陀仏。