昨年、札幌市内の納骨堂が経営破綻した事件が世間の耳目を集めました。宗教法人が巨額の負債を抱えて「倒産」したわけですが、その代表が僧侶ではなく、ビジネスマン。いつの間にか、お寺の名義が会社に買われていたというから驚きです。
最近、永代供養や納骨堂などにまつわる話題がしばしば報道されます。巨大なタワー型納骨堂があるかと思えば、花壇と見紛うような樹木葬があったり、なんでもありの様相を呈しています。
「安価」「駅近」等、まるでマンション販売のような宣伝文句が踊るが、お寺の名を語るも経営主体は民間事業者、営利企業であることも珍しくありません。納骨式になって初めて僧侶の姿を見かけたという声も聞きます。
法律上、お墓は自治体か宗教法人(お寺)しか運営することはできません。お寺も自力では限界があるから民間の力を借りるのはわかりますが、そもそも供養という重大な責任は誰が担うのでしょう。
納骨堂も永代供養も、遺族にとってかけがえのない人の遺骨と供養を預かる大事な役割があります。それにふさわしい場所としてのお寺に、また祭祀を任せる僧侶の人格に託すという気持ちが働いているはずです。当山の場合も例外ではありませんが、多くの方が「供養初心者」であり、だからこそ純粋にお寺を信頼されている。それを裏切るようなことがあっては、絶対にならないと思います。
先日、当山で3回目の永代供養セミナーを開催しました。お墓分譲のノウハウではなく、お墓を介在してどんなご縁を結ぶのか4時間にわたる熱心な議論がありました。私も登壇しましたが、そこで取り上げたのは「墓地管理者の倫理観」という課題でした。お寺であっても民間であっても、公共的な役割を自分が担う、そういう倫理観こそ肝心でしょう。
当山では、20年以上前から永代供養墓を運営してきました。最初から変わらぬポリシーは、まずはお墓の理念、供養の必要性をお伝えすることです。「安価」「駅近」で探している方には、ちょっと違うのかもしれませんが、そういう原理原則があって初めて供養の安心は保障されるはずです。
永代供養墓が拡大普及する今、供養の責任という言葉をつよく噛み締めています。