AIの時代。 仏教の三慧の心に学ぼう。

(2023年08月21日 更新)

真実を見極める力
去年の暮れからチャットGPTが世界中を席巻し、いよいよAI時代が到来した感があります。ほんの数十秒で長文の会議録を要約したり、英訳したり、人間の代わりに事業計画を立ててくれる。大学生の卒論だって代わりに書いてくれるそうで、文科省は、早速に小・中学生の宿題にチャット GPTの使用禁止のおふれを出しました。
もちろんなんでも正解というわけではないらしく、チャット GPTは「本当のような顔して嘘をつく」特技もあるそうですから、こちら側に虚実を見分ける力が必要となるようです。
SNSがそうですが、AIやネットの世界では嘘と真実の境界が曖昧です。圧倒的な情報に毎日さらされていると、何が本当で何が嘘なのか、それ自体判別できず、ただ流されるまま身を任せてしまいます。真実を見極める力が弱まっているのではないでしょうか。
自分で学ぶ。自分で考える。行動する。またこれは違う、これは危険だ、というような直観は、ただ生まれついての性分ではなく、人生の中で積み重ねてきたものがしっかりした基盤となっていくのでしょう。それを倫理や規範ともいい、常識といってもいいと思います。

聞思修
仏教を信心する、帰依するとは、教えによって自己を点検する、自己を改善するという意味があります。例えば、仏教の三慧(さんえ)「聞思修(もんししゅう)」とは、智慧を修行の順序によって三つに分類したものですが、そのどれもが私たちに大事な視点を与えてくれます。経典の教えを聞いて生じる聞慧(もんえ)とは、「相手の言葉をよく聴く」ことであり、思惟・観察によって得られる思慧(しえ)とは「相手をよく観察すること」、そして禅定を修して得られる修慧(しゅうえ)とは、「慎重に行動せよ」と教えてくれます。これは仏教的な修行の道を示していますが、そのまま私たちの生活態度、行動規範として受け止めてよいと思います。
チャットGPTがそう答えているから間違いない、ではなく、自分で観て、考え、自分で行動する。AIブームにはついていけなくても、しっかりした自己の基本は昔も今もそう大きく変わらないと思います。いえ、虚実ない交ぜの現代だからこそ、何千年続いてきた仏教の教えや作法を拠り所とすることがたいせつなのではないでしょうか。

大阪では盆施餓鬼法要がたけなわ。ご先祖様に報恩感謝の誠を捧げるのは、いずれの年中行事でも同様ですが、もう一つ仏さまの智慧に学ぶこともたいせつな行事参加の目的です。三慧とは、三つの智慧のこと。今日、この「聞思修」を心に刻んで、仏さまの功徳としたいものです。