経験を次世代に。「老僧」という呼び名。

(2023年02月24日 更新)

コロナの5類以降も決まり、お彼岸前にはマスクも自由化となりそうです。お寺では引き続き感染対策はとりますが、それでも心浮き立つものがあります。昨年秋彼岸会において、当山住職を30代に引き継いで、まさに若い世代の新しい春到来となります。

さてその折に、では前住職の呼び名について話題がのぼり、私からは「主幹」と呼んでくださるようお願いしてきました。お寺の世界にはあまりない、当山独自に呼称だったのですが、「言いにくい」「しっくりこない」と檀家さんからも不評(?)で、この際、思い切って「老僧」と称することとしました(スミマセン)。

「老僧」とは辞書には、「年をとった枯れ木のような僧侶」とあります。67歳としてはまだいささか重いなぁ、というのが実感ですが、禅宗では年齢に関係なく師家(先生)を「老師」といいますから、「老」は必ずしも「高齢」を指すとは限らないのです。むしろ「老練」あるいは「老成」という意味を取りたいと思います。

話は変わりますが、古今著聞集という古典に、竹生島を舞台にした「老僧の水練」という説話が出てきます。詳細は省きますが、若い僧侶が得意な水泳を不在であったため披露できなかったのに、70を過ぎた老僧が水面を衣のまま歩いてきて詫びたという不思議なエピソードです。おそらくその当時の70歳とは、長命な分、超越者的存在であったということでしょう。

それを気取るつもりは毛頭ないのですが、大事なことは「若い者に対抗した」のではなく「正装して詫びに来た」という点でしょう。年寄りであればこそ、責任を取るべきことは多いのです。

若い住職や次世代がこれから実行することに、失敗もあれば勘違いもあるでしょう。しかし、それも長い目で見れば大事な経験。檀家さまと「老僧」でじっくり育ててこそ、住職として自立していくのかと思います。

何十年も昔、私もそうでした。人間、育てられたように育つのですね。