フェイクに惑わされない。昭和の言葉がはらむ力。

(2020年04月10日 更新)

話題のドキュメンタリー映画「三島由紀夫VS東大全共闘」を観ました。68年の東大駒場講堂で行われた、千人の東大生と作家の対話集会を記録映像でまとめたものです。昭和世代の私には、体が熱くなるような映画でした。

三島由紀夫という名前は、戦後文学において燦然と輝いています。ノーベル賞級の作家でありながら、ボディビルダー、映画俳優、時に自衛隊に入隊したりと外連味の尽きない異能の人でもありました。「潮騒」から「金閣寺」「豊穣の海」まで高校生の頃、読みふけったものでした。

その三島が市ヶ谷で「自決」したのが1970年、私が中学3年生のときです。日本中が大学紛争とゲバ棒に明け暮れる中、大阪は万博景気で浮かれていました。混沌と高揚。ある意味、最も昭和が輝いた時代だったのかもしれません。

映画を見ていて感動したのは、「敵中」に単身乗り込みながら、対話を貫いた三島の態度でした。学生に対しても敬意を損なわず、あくまで言葉で論戦するという姿は、学生たちとも不思議な共通意識をはらんだ気がします。世界革命を目指した若者たちもまた真摯であり本気でした。両者に共通するものは、鍛え抜かれた鋼のような言葉だったのです。半世紀にあって、忘れてきたものを思い出させるような、そんな映画でした。

さて、話題は変わりますが、コロナ感染症拡大について、メディアの報道が嫌という程連日続いています。テレビはわかりやすさが命なので、誇張や省略が甚だしいのですが、視る者を不安に陥れます。SNSに至っては(貴重な情報もありますが)下劣な誹謗中傷やフェイク(にせもの)が飛び交い、言葉は刹那で、浮足立ち、責任というものを伴いません。

正しい情報は必要です。冷静な対策も重要でしょう。しかし、トイレットペーパーのデマに狂奔したり、マスクの奪い合いで喧嘩沙汰になったり、わかりやすさに慣れきった現代人には「不安を生きること」の意味が薄らいでいると言えないでしょうか。三島が残した「不安は奇体に人の顔つきを若々しくする」という言葉の含蓄を改めて思うのです。

隠忍自重。ただ我慢強くあれだけでなく、昭和世代の私たちだから、生きてきた時代の重みや思考の深さを備えていきたいものです。