師匠と先生の違いとは。日大アメフト問題に思うこと。

(2018年06月11日 更新)

ここしばらく、世間は日大のアメフトの問題で揺れています。勝ち負けの世界ではあるが、スポーツの精神の何たるやを今一度、見直すべきでしょう。

アメフトに限らず、こと学校教育におけるスポーツの監督・コーチは、競技を通して選手の人間性を育てることに傾注しなくてはなりません。人間性の育成を忘れた指導を、「師」と呼ぶことはできないのです。

師匠と先生は、似ているようで違いがあります。

先生は、学び手にとってわかりやすく教えてくれますが、師匠は必ずしも教えることを本義としません。先生は論理的に筋道を立てて教えますが、師匠の多くは、ある意味もっと体験的で直感的な育成を行います。わかりやすい例を挙げれば、落語家の師匠がそうです。弟子に稽古をつけることもありますが、芸事の基本はすべて「見て盗め」。カリキュラムもテストもありませんが、弟子は師匠の一挙手一投足を真似て学びます。

同様に小学校の先生と、幼稚園の先生も違います。前者に比べ後者は、少しニュアンスは異なりますが、師匠的といっていい。教えるのではなく、子どもとともに活動や生活をともにしながら、みんなで生きることの喜びを育みます。何かができる、わかることよりも、一緒にやってみる、共鳴したり共感することに喜びを見出すのです。

そのために幼稚園の師匠は、動きやことば、表情や姿勢が「かっこよく」なくてはなりません。それは決して権威ではないけれど、弟子(子ども)たちにとって模範であり鑑であり、そして憧れの対象です。上からの命令や指示、強制など一切なく、ただそれに憧れて、弟子たちを感化していくものなのです。また、そうであってこそ、弟子たちの本当の自発性・主体性が芽生えるのではないかと思います。師匠の原型を、幼稚園の先生のすがたに見るのです。

ひるがえって、仏教の場合でも似たようなことが言えるのではないでしょうか。上から信仰を押し付けるのではなく、黙っていても感化させ、静かに浸透していくような師匠のあり方。仏教の師弟も本来そういうものでしょう。