ワールドカップの大声援。同称十念は感謝の声。

(2026年07月07日 更新)

サッカーのワールドカップの試合に魅了される日々が続きます。熱闘を繰り広げる選手の力を引き出しているのは、技術や戦術だけではなく、スタジアムいっぱいに響く声援です。国を越え、言葉を越えて、人々の声が一つの大きなうねりとなり、選手の背中を押していく。その声の力に、私たちは思わず心を動かされます。

声には、目に見えない力があります。一人の声も尊いものですが、多くの人が心を合わせて声を重ねるとき、そこには一人では生まれない大きな安心や喜びが生まれます。声は単なる音ではありません。人と人を結び、心を支え、希望を分かち合う働きを持っています。

お寺で皆さんとご一緒にお勤めをしながら、「南無阿弥陀仏」とお念仏を十遍お称えする同称十念にも、そのような力があると感じます。

もちろん、私たちが阿弥陀さまを声援しているわけではありません。阿弥陀さまは、念仏を称える者を「必ず救う」とお誓いくださっています。念仏とは、そのお慈悲に出会い、「ありがとうございます」と応える私たちの声なのです。たとえ試合に敗れても、スタンドから絶えることのない声援もまた、感謝の声といえないでしょうか。

一人で称える念仏も尊いものですが、皆で声を合わせると、不思議と心が励まされます。「私は一人ではない」という安心が自然と心に広がります。仲間の声と交感し、自分の声もその中に溶け込んでいく。その響きあいの中で、私たちは阿弥陀さまの救いが、自分だけではなく、この場にいるすべての人に向けられていることを、身体で丸ごと感じているのかもしれません。

現代は、人とのつながりが薄れ、孤独を感じやすい時代と言われます。S N S にはたくさんの声が渦巻いていますが、相手を攻撃したり憎しみ、蔑みの声も多いようです。デジタル空間の声には、温もりは乏しい。本当に救われる声は、できれば時空を共にして、「同称」できるものであってほしいと思います。

私は、ご法事の前には必ず皆さんに「同称十念」をお勧めしています。若い世代の中には、初めて体験するという方も少なくありません。最初は少し気恥ずかしく感じるかもしれませんが、一声、二声と念仏を重ねるうちに、その戸惑いは自然と薄れ、心が穏やかになっていくことがあります。仏の慈悲とは、そんな私の心の中の強張りを、少しずつ解きほぐしてくれるものなのです。