仏教シネマレビュー「かぐや姫の物語」

(2013年12月21日 更新)

アニメ映画のアニメとは、ラテン語のアニマ(霊魂)を語源とする。生命のないものに魂を吹き込む、動かない静止画はいきいきと動き出す。アニメは、動きや色が(カット割も含め)つぎつぎと加算されて、現在の形へと進化していった。
テレビアニメが普及して、キャラクター商品が売れ、CGがさらに拍車をかけ、アニメはマーケットの花形となった。日本アニメは、いまや知財のひとつであ り、クールジャパンの立役者である。極彩色で輪郭線が明確で、動きはスピーディー、カット割りが早くて飽きさせることがない。

今年の収穫の一本「風立ちぬ」は、そんな日本アニメの極地を実現したものだった。
実写の映画以上にリアルという逆転の画期でもあった。だが、同じジブリのアニメでも、「かぐや姫の物語」は、それとはまったく対照的であり、見たことのないもうひとつのアニメ世界を描き出す。それまでのアニメが「作り込む」足し算のアニメなら、この作品は、極端に引き算されたアニメなのだ。
間引きされた絵、ゆっくりした展開、カット割は少なく、アニメの定石である、「明暗」「速度」「誇張」がない。努めて抑制的なのだ。引き算とは過剰なテクニックの自制である以上に、私たちが求めがちな「夢」「希望」「可能性」といったものを打ち消すような諦観にあふれているという意味でもある。別の言い方をすれば、アニメなら何でも可能と過信せずに、原点である一枚の絵に膠着せよということだろうか。(ただし逆に時々、はっと衝き動かされるような実験映 像も盛り込まれているのだが)。

ラストの月に帰るかぐや姫を、迎えにやってくるのは、何と二十五菩薩を率いた阿弥陀如来である。高畑勲監督が仏教にヒントを得たのかどうかは不明だが、しかし、近年、これほど日本人の無常観を訴えた映画を、私は知らない。
いのちは儚くも、美しい。束の間の生を愛おしむ。だから今を懸命に生きろ。78歳の老匠が、私たちにそう語りかけている。評価A。


映画『かぐや姫の物語』公式サイト