「お盆のお墓参りには行かない」という若い世代が増えたといいます。またある意識調査では、若者の約4割が「お盆が何をするための期間か知らない」と答えたそうです。迎え火、送り火、初盆、盆提灯といった言葉も、だんだん馴染みのないものになっているのでしょう。
そうはいっても、お寺から見ていると、今年もいつものお盆の光景があります。猛暑の中、お墓参りは絶えませんし、棚経に伺えば、ご家族そろって迎えてくださいます。お盆が暮らしの中に息づいている家族と、そうでない人たち。その二分化が進んでいるのかもしれません。
仏教には多くの年中行事があります。春秋のお彼岸、除夜の鐘、そしてお盆。京都の五山送り火や長崎の精霊流し、各地の盆踊りも、もとは祈りや供養と深く結びついた営みです。
伝統は、残っているだけでは伝統になりません。誰かが受け渡し、誰かが受け取る。そのリレーがあって、初めて続いていきます。
いまはAIに尋ねれば、お盆の意味も作法もすぐに教えてくれます。しかし、「知っている」ことと「する」ことは違います。仏壇に手を合わせる。お墓に参る。盆飾りを整える。少々面倒でも、昔から伝わる「型」があるからこそ、言葉にならない思いを形にすることができます。
私は、若者の「お墓参り離れ」を、それほど心配していません。
今年、初盆を迎えるご遺族にも若い方がいらっしゃいます。「これまでは両親に任せきりでした。これからは自分が祀っていきたいので、一から教えてください」。そんな言葉を聞くことがあります。慣れない作法に親しむ姿が尊いものです。
大切な人を失って初めて、お盆を知ることもあるのでしょう。
伝統とは、古い習慣をただ守ることではありません。懐かしい人を思い、自然に手を合わせたくなる。その思いに「形」を与えてくれるものです。そしてそのとき、亡き人のほうから私たちに伝統を教え、次の世代へ手渡してくれているのかもしれません。



