お彼岸にはみなさんお墓へ参ります。しかし、私たちはいったい誰に会いに行くのでしょう。古くから続く心の習慣を日本人はどのように捉えてきたのでしょう。
近代の文豪と呼ばれる人たちの言葉をたどってみると、死者と生者との間には、思いのほか近い距離が見えてきます。
今はあまり読まれなくなったのかもしれない、名文家のアンソロジーです。
幸田 文――墓へ行く
「お彼岸のお墓詣りに行くのである。」
「いよいよ私は専門のお詣りである。」 ――「墓参」
幼くして母を亡くした幸田文は、長い歳月、墓参りを続けました。やがて父・幸田露伴も亡くなり、墓に眠る人は増えていきます。「専門のお詣り」とは、何とも幸田文らしい、少し可笑しくて、少し寂しい言葉です。歳を重ねるということは、見送った人が増えていくことでもあります。そして、いつの間にか自分が「墓へ行く側」に残されています。
柳田國男――死者を連れて帰る
柳田國男の『先祖の話』には、墓参りに新しい荷縄を持って行く老人の話が出てきます。何に使うのかと尋ねると、老人はこう答えます。
「ほとけ様を負うて来るのだ」――『先祖の話』
なんと不思議な言葉でしょう。墓参りとは、こちらから死者を訪ねていくことだけではなかったのです。死者を背負って、わが家へ連れて帰ってくる。柳田が見つめた日本人の死生観では、死者は遠い世界へ消えてしまうのではありません。先祖となって、子孫の暮らしの近くにとどまります。彼岸は、案外近くにあったのです
内田百閒――死者の気配
内田百閒の『冥途』を読むと、もっと不思議な感覚になります。夢なのか現実なのか分からない。生者の世界に、いつの間にか死者の世界が入り込んできます。百閒にとって死者は、遠い「あの世」の住人というより、ふとした瞬間にこちら側へ気配を漂わせる存在でした。此岸と彼岸との間には、大河が流れているのではなく、薄い膜のようなものが一枚あるだけなのかもしれません。
白洲正子――墓を見つめる
白洲正子は「私の墓巡礼」という文章を書いています。彼女は古寺や墓を訪ね歩きました。しかし、それは名所旧跡を見る旅ではありませんでした。墓を通して、そこに生きた人間を見ようとしたのです。墓とは、死者を閉じ込めておく場所ではありません。そこに立つことによって、むしろ生きているこちら側が、自分の生を見つめ直す場所なのでしょう。
川端康成――死者とともに生きる
川端康成ほど、幼いころから死と隣り合わせに育った作家も珍しいでしょう。二歳で父、三歳で母、七歳で祖母、十歳で姉を失い、十五歳で祖父を亡くして、ついに一人になりました。祖父を荼毘に付し、その骨を拾った体験を書いた『骨拾い』に、こんな一節があります。
「やはりお祖父さんは、見えない目に喜びの色をたたえて、私の帰りを迎えてくれるようでならない。」――『骨拾い』
祖父はもう骨になっています。それを少年川端自身が拾っています。それなのに、家へ帰れば、目の見えない祖父がいつものように自分を迎えてくれる気がする。死を頭では知っていても、心はすぐには死者を「いない人」にできません。
川端は後に、祖父の死について、
「この祖父の死によって、十六歳の私は一人の肉親もなくなり、家も失つたのであつた」と記しています。
川端の文学には、その後も死者の影が繰り返し現れます。しかしそれは、死に取り憑かれているというより、死者を自分の内側に抱えながら生きていく文学だった、と読むこともできるでしょう。
彼岸とは、死者だけがいる場所ではなく、生き残った者の心の中にもあるのかもしれません。
幸田文は、墓へ通いました。
柳田國男は、死者を連れて帰る日本人を見つめました。
内田百閒は、日常のすぐ隣に死者の気配を感じました。
白洲正子は、墓を訪ねながら生を見つめました。
川端康成は、死者を心の内に抱えて生きました。
それぞれの言葉を読んでいると、彼岸と此岸とは、私たちが思うほど遠く離れてはいないようにも感じられます。
けれども、ここで一つの問いが残ります。
では、死者はいったいどこへ往ったのでしょう。
近代の作家たちは、その問いの周りを歩きながら、それぞれの言葉を残しました。
法然上人の言葉は、驚くほど簡明です。
「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑いなく往生するぞと思い取りて申す外には、別の仔細候わず。――『一枚起請文』
彼岸とは、ただ亡き人を思い出す日ではないのでしょう。
亡き人を思うことによって、自分がどこから来たのかを知る。そして、自分自身もまた、いつか此岸から彼岸へ渡る者であることを知る。
墓前で合掌する私たちは、亡き人を見送っているだけではありません。その向こう岸を、いつか自分も渡る。その清々しい思いを刻む行為でもあるのです。

(浄土宗HPより引用)


