藤腹明子先生をお迎えして 「仏教を通じて考える『看護と介護』」を開催して

(2020年11月12日 更新)

去る10月3日に、藤腹明子先生をお迎えして 「仏教を通じて考える『看護・介護』」(主催:大蓮寺)を開催いたしました。今回は、新刊『母に学ぶ家族介護の心得と作法13カ条』(青海社)の発刊記念講演としても兼ねております。

藤腹明子先生は、長く看護師そして看護教育に関わり、さらに佛教大学で学ばれ、大蓮寺・應典院が進めている「看仏連携」にふさわしいお話を聞くことができました。関係する著書も多数出しておられ、また日本仏教看護・ビハーラ学会の設立に関わっていらっしゃいます。

藤腹先生のお話を一部抜粋しながら当日の様子を報告したいと思います。

お母様の介護のために、定年を待たずして看護教育の仕事を辞め、以降14年間にわたって介護をされた藤腹先生。さらにお父様そしてご祖母様も、看護・介護をして看取られました。その体験を通じて気づかされたこと、困ったこと悲しかったことなどを書き留めたのが、発刊された著書『母に学ぶ家族介護の心得と作法13カ条』です。

この日は、本書の第11カ条に取上げられている「死生観」について主にお話いただきました。藤腹先生が介護を通して実感されたのは、「介護の在りようは、介護する側・される側の両方の死生観によって左右される」ということです。

介護は、いのちの老病死・看取り・葬送と深く関わり合っています。介護される側は、ときに「もう早く逝きたい。」「なんのために生まれてきたのか。」「なぜこんなになってまで生きていなくてはいけないのか。」などの命の根本にかかわる問いかけをしてくることがあります。これは生きる上で大事な問いかけです。このような「生き死に」にかかわる自身の考え方や価値観を明らかにしたものが死生観に重なります。

生死一如といいますが、人の死は突然やってきます。いつどこでどのような形で死を迎えることになったとしても「これでよい、いい人生だった」と思えるように生きるためには、平生から「死生観」を育んでいることは大切なことです。仏教の教えは、いのちをめぐる様々な問題を助けてくれるという実感があります。また、死生観と宗教は重なり合い、分けては考えることはできません。

経典『ダンマパダ』の教えには、「この世に人間の身を享け、生命があるということ自体難しいこと」だと記され、『スッタニパータ』の教えには、「この世における人々の命は、定まった相なく、どれだけ生きられるか解らない。惨ましく、短くて、苦悩をともなっている」とあります。一見矛盾しているように思われるこの二つの教えに向きあい、これがなぜなのかを考えることこそが、死生観を育むことではないか考えます。

また、あの世があるのかないのかは、生きている人間には体験的にはわかりません。それを信じるか、信じないかということになるのでしょうが、「人は死んだらどこへいくのだろうか」という素朴な疑問に対しても、一度は、向き合ってみてほしいものです。死は、けっこうやっかいな問題であり、真っ向から対峙したとき、人は簡単には死という恐怖の一線を乗り超えられない存在であることを、患者さんへの看護を通じて学んできました。そのような意味合いからも、普段から自身の生き死にの問題に向き合い、自らの死生観を育んでいただきたいと思います。また、その死生観は、自分の人生観・家庭観・結婚観・育児観・仕事観など、多くの価値観へ広がりを見せていくものです。

と先生は介護の経験を通じて語られ、また、看護・介護と死生観に関連して、その前提となる点について、「看護や介護を受ける人の死生観が、看護や介護の前提になるということ」、「死生観は、他人に押しつけたり、強要するものではない」ということを挙げられました。

患者や介護される人と医療者・介護者・家族、それぞれが死生観を育み、お互いの死生観を尊重し、関わり合うことが大事であり、そのことが互いにとって人生における大きな意味をもつ機会となります。

『母に学ぶ家族介護の心得と作法13カ条』の第2カ条には、「介護の基はセーバー、ウパスターナ、共語にあり」と挙げています。サンスクリット語のセーバーには「親近」の意味が、ウパスターナには「傍らに立つこと」、共語は「ともに語らい聞き合う」の意味があります。昨今、私たちはよく「寄り添う」という言葉を使いますが、この言葉に「セーバー」「エパスターナ」「共語」の意味合いを重ねてみることを提案したいと思います。

日本は長寿の国ですが、健康寿命(日常生活に制限のない期間のことで、周りの助けをかりなくても健康的な生活が送れる期間)は、男性が72.14歳、女性が74.79歳です。平均寿命と健康寿命の格差の縮小が目標になるようです。また、介護期間の平均は4年9か月だそうです。必ずやってくる老いと死。その生涯において介護する側、される側の両方を経験することは大いにあり得ます。死に往く時に「いい人生だった、これでいい」と思えるように、また看取った後に、「十分介護させてもらった。後悔や心残りはない。」と思えるように、さらには、「看護や介護を受ける際に、自分がしてほしいこと、してほしくないことを、はっきりと言える強さを持つことができるためにも、死生観を育むことは大切であるということでした。

 

この後、秋田住職からのコメントがありました。

秋田住職からは、「一人ひとりがロングアプローチするのが死生観を育むことであり、またそれを個人だけに閉ざさず、いかに開いていくかが問われていると感じています。介護は密室化しがちで介護暴力や介護殺人まで起こってしまいます。当事者が抱え込む課題を、他者が参加することで、共有・学びに対象化することができないか、大蓮寺と應典院で地道に活動を広げているところです。多死社会を迎えている現在、今後も、生死・スピリチュアルに基づいた活動を続けていきたいと、藤腹先生のお話を聞いて、気持ちを新たにいたしました。」というお話で締め括りました。

最後に、参加者のみなさんで、心に残ったキーワードなどを共有して、講演会を終了いたしました。