間違いだらけの墓じまい。 肝心は寺檀のコミュニケーション。

(2023年05月09日 更新)

最近、新聞やネットニュースで「墓じまい」について見出しが登場するようになりました。少子化によるお墓の継承難や、家族の多様化によりお墓そのものも多様化する現代です。いろいろな事情があることはわかります。

ただ、「墓じまい」に伴って「離檀料」という言葉も蔓延するようになり、中には百万円と請求荒れだとか極端なケースが紹介されますが、これは重大な誤解があります。

そもそも「離檀料」なる言葉はありません。憲法において信教の自由は保障されていますから離檀は自由ですし、そういう料金体系が最初からあるはずもありません。墓じまいに伴う祭祀や手続きは必要であって、それをメディアが「離檀料」と命名したのでしょう。それが飛躍して、お寺ともめたら解決金で処理する。そういうストーリーが出来上がっているように思います。

世の推移もあって、お寺とのつきあいが負担という考えも大きくなっているようです。また消費者的な感覚でなんでも自己本位に考えていくと、墓じまいには不合理なものも感じるのかもしれません。

しかし、大事なことは金額とかではなくて、まずはお寺と檀家のコミュニケーションではないでしょうか。なかなかお参りできないにしても、普段のお寺とのつきあいや連絡はあったのか、お寺の側も、定期的に寺報や通信を発行したり、年回の案内をしたり、互いをもっと「知る」努力はあったのか。お寺と檀家の関係はサービスの需給ではありません。長い時間軸でご先祖をどう祀るのか、供養するのか、という視点がないと、全て「お金の問題」にすり替わってしまいます。

たまに、大蓮寺で墓じまいの受け入れを打診されることがあります。私は、「菩提寺さんにはきちんとお話されましたか」「ご了解をいただきましたか」と念を押します。相談があれば、私の意見もお伝えします(そこではもめたというお話は聞きません)。長い間守ってくれた故郷のお寺さんにどう振る舞うのか、礼を尽くすのか、ある意味「作法」「心得」を丁寧に伝える第三者の存在も必要かと思います。