マスクの下の笑顔。卒業お礼参り

(2022年03月07日 更新)
先週末は、年長児127名とともに3年ぶりに大本山百万遍知恩寺に参った。恒例の卒業お礼参りであるが、2年間コロナのために中断していた。
この日は名物の大念珠繰りもなかったし、園児の仏賛歌もテープを静聴してしのいだ。わざわざ京都まで、と思いたくもなるが、やはり聖堂空間の持つ空気感は圧倒的である。底冷えするような冷気(霊気)が身を引き締める。
私は園児たちに「四恩」の話をした。少しアレンジしているが、先生と、友達と、両親、そして御仏のご恩を知ることと、その「恩返し」は(まだ先でいいのだけども)立派な小学一年生になることだと伝えた。年中から2年間、私も一緒に勤めてきた仏参が、今日の日のためにあったのだと、子どもも先生も共鳴するものがあった。
学校の宗教行事には3つの要件がある。場所と儀礼とことばだ。いつも大本山である必要はない。毎日の保育室にせよ、月一の大蓮寺本堂にせよ、特別な場所にはたましいを宿している。儀礼とは作法でもあるが、中心がなくては成立しない。御仏を仰ぎ見る、そういう縦軸の関係があって、初めて目に見えないものへの崇拝が生まれる。そしてことば。もっぱらは宗教者のことばだが、これが一番難しい。時に子どもに媚びたり、強要したりしていないか。いっそないほうがマシ、という時もある。我が身を正したい。
この子たちは2年間マスク続きだった。行事は中止になるし、給食は黙食だし、歌声は途絶えた。幼稚園は小学校のようにリモート授業はできない。しかし、ただ預かるだけなら、幼児教育はいらない。
延長されるまん防の下、果たして子どもの発達を十分保障できたのか、私にはいささか心もとないのだが、確信できるのは、子どもたちのマスクの下はいつも笑顔であったということ。そのことに支えられもするし、励まされもする。
よいお礼参りとなりました。子どもたちよ、ありがとう。