みんな違ってみんないい。共に生きる多様性社会。

(2021年02月15日 更新)

金子みすゞの「私と鳥と小鳥と鈴と」という有名な詩があります。

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のやうに、
地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。

 

ラストの「みんなちがって、みんないい」というフレーズは、あります。どんなささやかなものも「ありのまま」を受け入れようという、現代の多様性を象徴する名句として知られます。

多様性というと、今回オリンピックのエラいさんの差別発言が物議を醸しました。本当に情けないとしか言いようがありませんが、IOCが「オリンピックの多様性の精神の反する」と断罪しました。

スポーツの世界が多様性はどんどん進化しています。テニスの大坂なおみ選手を筆頭にバスケットの八村選手、陸上のサニブラウン選手など、外国にルーツを持つ選手が日本人として世界的に活躍しています。いや、民族とか国籍だけでなく、大人と子ども、高齢者と若者にも、価値観やライフスタイルによっても多様性はあります。どっちがいいとか正しいとかではなく、どれもいいのです。オリンピックだからことさら、多様性が認識されるのはなく、そのままを受け入れていくこちら側の平等感覚が大事となります。

浄土宗の聖典「阿弥陀経」には、極楽世界の様子を謳い上げる「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」という一節があります。

青い花は青い光を、その他の色もそれぞれに光を放っていて、それがすばらしいと歌い上げます。一色に合わせるでもなく、それぞれの花がじぶんの役割として異なる色の光を放っている。仏教には、こうした「ありのまま」をやわらかく受容する面があります。まさに「世界に一つだけの花」なのです。

 

■仏教の現代的使命

一方で、「ありのままでいい」とはなかなか思わせてくれないのが、私たちが生きる現代社会の実相です。

大人は子どもに期待もするからあれこれ干渉します。先生や上司にも、こうあるべきだという原理原則があって、それは知らず知らず相手を圧迫していることが多いようです。なかなか「ありのまま」ではいてくれさせない。

あるいは、「みんなちがう」のだから、「お互い干渉しないでおこう」という無関心・無関係が助長されるかもしれない。余計なことはしない。知らんふりをする。それが差別や排除の温床にならないとも限りません。「ありのまま」とは、たやすいことではないのです。

こう考えてはどうでしょう。まず自分の価値判断や思い込みを棚上げして、「ほとけさまならどうするだろう」と思考の軸を預けてみてはどうでしょう。「自分は絶対だ」という自我を横に置いて、ほとけ様のお知恵に尋ねてみるのです。それは、相手を変えるのではなく、自分の見方、考え方を修正してくれるのではないかと思います。

「ありのまま」とは、互いの優劣や勝敗を判定することではありません。できることもあればできないこともある。それを認め合い、できることがあれば喜び合い、できないところを補いあう。多様性社会とはつまり他者に対する敬意と尊重をベースにした、共生社会の前提でもあるのです。これは、地球温暖化の解決にもつながってきます。

自己の都合やエゴを超えて、仏という大きな全体の中で関係を位置付けしていく。仏教の現代的使命がそこにあると考えています。