ネガティブ・ケイパビリティ。わからないことの留保。

(2020年04月16日 更新)

一昨日の朝日新聞に小説家の帚木蓬生(精神科医でもある)が「ネガティブ・ケイパビリティ」について語っている(同タイトルの本もよく読まれている)。「生半可な知識や意味づけを用いて、未解決な問題に拙速に帳尻を合わせない。宙ぶらりんの状態を持ちこたえる力」だと説く。「(わかりたいという欲求の)言いなりにならないのが、知性。わからないという状況に耐え、悩むことは本来、価値がある知的な能力なので、恥じることではない」

「ネガティブ」という言葉を社会は忌避する。私のいる教育の世界などは、すべからくポジティブ信仰があって、わかりにくいとか悩むなどという態度は即時修正されるべき性癖と判定される。学校価値は「わからない」ことを許容しないし、しかも「わからせてあげよう」とする教員も保護者も多くは善意の塊なのだ。しかし、幼児教育の現場にいてつくづく思うのだが、教育者だからといって幼児を簡単に「わかってしまう」ことが畏れ多いのではないだろうか。
宗教やアートに私が惹かれるのは、そういう能力を基礎付ける有効なスキルが備えられているから。仏教は、悩み方を教えてくれているのであって、あえて正解を導かない。結論を急がず、留保する態度は、仏教の「脱構築構造」(釈徹宗)にも通じる。

應典院で長くアートに取り組んできたのも、この「わからない」ことの留保(タメ)に対し寛容であるからだが、近年取り組むコミュニティケアも同様の「ネガティブ性」を潜めている。1月の看護連携でも、僧侶の「あえて解決しない態度」を評価する声が上がったが、これも「わかる・わからない」の二択を超えるネガティブの力だと言えるだろう。

「悩みや不安があっても、急がず、焦らず耐えていく」と帚木蓬生は言う。
現状のコロナ鬱のような状況と、では私はどうつきあえばいいのか。焦らず、悔やまず、しかも自宅に止まったままできること。で、動画配信サービスで古い映画を順番に観ることにした。今日はフェリーニの「カリビアの夜」、明日は成瀬巳喜男の「女が階段を上がる時」。しばし現在とは違う「ネガティブ」な時間に浸かろうと思う。