「教会の犯罪」を描いた映画「スポットライト」。

(2016年05月06日 更新)

宗教とソーシャルキャピタルを考える興味深い映画を見た。本年のアカデミー賞を受賞した「スポットライト 世紀のスクープ」である。

映画の完成度は高い。巨悪を追いつめる記者モノとしては、かの「大統領の陰謀」を凌ぐ面白さである。地味な取材を積み重ね、じりじりと悪の牙城を切り崩すジャーナリストの活躍は、スリリングかつ胸がすく。なので、キャッチーとしては「カトリック教会のスキャンダルを暴く社会派ドラマ」として見られるのだが、その重要な伏線として描かれるのが、米国の地域社会における宗教の影響の大きさである。2003年にあった実話なので、日本の現状と重ねると彼我の違いが見える。

 

簡単に物語を紹介しよう。 

アメリカの地方紙「ボストン・グローブ」の記者たちが、神父による児童への性的虐待の真相について調査を開始する。見てみないふりをする警察、犯歴に口をつむぐ検察、被害者の家族も「なかったことにしよう」とする。なぜならそれが、町の拠り所である「教会の犯罪」だからだ。

取材は困難を極める。このあたりが映画的に見応えがあるのだが、その執念によって次々と真実が明らかとなる。常習犯数名の犯行ではない。罪深きは、それを知りながら組織的隠蔽を図った教会の「大罪」である。70人以上の神父による虐待事件に関する600本の記事は、米国社会に衝撃を与え、2003年のピューリッツァー賞を受賞する。その映画化である。

 

本作に通底するテーマは「教会という権威への信奉と絶望」である。カトリック教徒の多いボストンでは、隠蔽したのは教会だけでない。検察や警察、弁護士、あるいは被害者家族までが口をつぐみ、闇へ葬ろうとする。グローブ紙だって以前の犯行時には、まともに掘り下げようとしなかったではないか。

記者もまたボストン出身者である。ボストンの名門高校では卒業式に教会の司教が招かれる。彼らの家族も日曜礼拝の常連である。あるいはユダヤ人、アルメニア人、ポーランド人など多民族な地域を結束しているのも教会である。映画の進行過程で9.11が発生するが、有力者から「こんな時だから、教会を守れ」と圧力がかかる。米国の地域社会にいかに教会が浸透しているか、思い知らされる。それはつまり、教会が大きなソーシャルキャピタル(社会関係資本:信頼・規範・ネットワークといった社会組織の重要性)のリソースであることの証左でもある。

 

ソーシャルキャピタルには2種ある。

「結束型」は組織の内部における人と人との同質的な結びつきで、内部で信頼や協力、団結を生む。もうひとつ、「橋渡し型」は、異なる組織間における異質な人や組織を結び付けるネットワークであるとされている。言うまでもなく、本作で描かれるソーシャルキャピタルとは、強い結束によってコミュニティを防衛しようとするが、その影の部分である閉鎖性と排他性によって、事件の隠蔽と記者へ圧力を図るのである。

そう思うと、新聞社内部でさして注目されなかったこの事件を最初に、掘り下げようとしたのは、新しく赴任したユダヤ人の編集局長であるという点も興味深い。内部の人間は無意識に目を逸らすが、彼は「よそ者」だったのである。

ソーシャルキャピタルの理論を普及させた政治学者ロバートパットナムが名著「孤独なボウリング」で米国コミュニティの衰退を描いたのが、2003年。同じ年にこの事件が白日に晒されたのは、教会の権威が凋落したからか、あるいはコミュニティの秩序が内部から崩壊したからか、興味は尽きない。今であればさしずめ不穏なイスラムフォビア(反イスラム感情)が、米国コミュニティを結束しているのかもしれない。

 

最後に後日談をひとつ。本作の公開を機に被害にあった元子どもたちが、続々と声をあげている。映画は、今年2月にローマ法王庁で試写会が催され、バチカンの日刊紙は「被害者の痛みを共に知らしめた」と称賛したという。その前日、本作はアカデミー作品賞と脚本賞をダブル受賞している。

宗教を考える絶好の一本。まだ上映している館もあるので、ぜひ見てほしい。(M.キートン、渋い)。