beingかdoingか。ソーシャルキャピタルとしての寺院を考える。

(2016年05月05日 更新)

寺院仏教のソーシャルキャピタルを考える際、目立った社会活動を「する寺院」に加えて、「ある寺」という役割の果たし方も考えるべきではないだろうか(1章)

櫻井義秀、川又俊則編による「人口減少社会と寺院」(法蔵感)を読んだ。「ソーシャルキャピタルの視座から」と副題にあるように、寺院と社会の関係を地域開発や運用の糧として捉えようとしている。

これまでも同じ観点の本が出ているが、本書の特色は「doing」でなく「being」としての寺院活動、つまり従来の寺檀制度から地域密着型であるゆえの「社会関係資本」を読み取れるか、という発問にある。わかりやすくいえば、地方におけるごく普通の寺院活動がどれだけ社会的に役立ってきたのか、そのありようを実証しようとしている。

 

「社会に役立つ」と書いたが、少し複雑に感じるところがある。なぜならたぶん編者たちにとって應典院は「being」の典型で、社会活動は顕著だが、相対的にいうと、「doing」とは真逆の存在と位置づけられているだろうからである。つまり、應典院のような「社会の役立ち方」とは違う、もっとオーソドックスな有用性や存在理由が「being」寺院にはあるという捉え方だ。本書の中にも日常的な法要や年中行事、また宗教講や坊守と地域関係について言及がある。

「being」寺院のポテンシャルについて、私もまったく同意する。地域社会に寺が存在することが、どれほど規範や安心を醸成しているか。メディアには社会活動ばかりが取り上げられるが、檀信徒はいつだって葬儀・法事をきちんと勤めてくれる住職を求めている。東日本大震災直下の仏教への再評価は、そういった日常の関係性の延長線上にあるのは言うまでもない。イベントやまちおこしが、優先事項にあるのではない。

 

もう少し掘り下げて言うと、近年の宗教とソーシャルキャピタル論が、「doing」型の宗教・寺院活動に偏りすぎた危惧があるのかもしれない。いや、乱暴な言い方をすると、ソーシャルキャピタル論が出てきてから、「being」型寺院は開かれていない、つながりも生み出せない旧態型のような捉え方に陥りつつあったともいえる。

確かにソーシャルキャピタル論が、應典院を挙げるまでもなく、ホームレス支援や自死遺族のケア、震災時における救援活動など、この20年(私が思うにそれは95年の阪神淡路大震災から始まっている)の展開を後押ししてきた。

だが、人口減少社会にあっていっそう過疎化していく地方を保守しているのは、圧倒的多数の「being」の寺院である。その多くは檀家が減少し、経済も逼迫する中、寺を守っている。本書ではその事例が多数紹介されるが、要約すれば「過疎地域の住職の地道な活動こそ、地域のソーシャルキャピタルを維持している」(3章)のだ。

 

無理をして、少し書いておきたいことがある。

私には、過疎の問題を当事者として語ることはできない。だが、應典院の本寺の大蓮寺も一般的な檀那寺だから、檀信徒の減少や葬送儀礼の変容は、問題を共有している。

人々の意識は大きく変化している。伝統的な葬送文化は大切にしたいが、いずれ解体再編を余儀なくされる。家から個人へ。死者供養という名の、生者のケアとサポート等々、都市、地方の区別なく寺院には多くの課題が突きつけられている。

事態は厳しく深刻だが、一方で従来の制度や儀礼を活用した、新しい「being」のあり方も模索できるのではないか。大蓮寺の場合は、生前個人墓や永代供養墓を設け、そこから信徒の獲得へとシフトしている。終活ブームの以前からエンディングのセミナーを続けているし、一昨年からは生前契約によるケアサービス(NPOと協働)も始めたが、既存の檀信徒の関心も高い。ここでは、「doing」と「being」は(都市と地方、過密と過疎という)二項対立ではなく、相互に連携しながら補完作用をなしている。それがどれほど汎用性があるかは別にして、両者が反発しあっても、何の益にもならない、と思う。

  

本書には「being」寺院を現状評価する論は多いが、しかし、だからこのままでよいという論は皆無だ。いくつかの試論もあるが、「現代仏教が臨床実験を行う場として地域社会がある」のだとしたら、「being」を基盤とした「doing」の模索、あるいはもうひとつの「being」ともいうような試行錯誤を見いだすことはできないのだろうか。

 

追記

11章「廃寺」は胸が詰まるレポートだった。「過疎地を看取るのが寺院の役割」であるとしながら、「過疎問題・廃寺問題は、人口が減少することや寺を廃寺することを負に考える視点から脱却しなければ」ならない、とする筆者の問題意識。有用性論議を超えた、深いソーシャルキャピタル論だと思う。