境界上の舞台はある。「仏教の語り芸 死者を語る」

(2015年12月06日 更新)

幼稚園の園長をやっていて感じることがある。幼児教育の本質は、「声」に現れるのではないか。中心のある声というか、声に軸が通って、子どもの身体は勢い立つ。恐らくそのことと「教室」という場所は不可分な関係にあって、声と場は相互に反応しあう。

能楽師安田登さんの声を聴いて、そう感じた。昨日の「セッション! 仏教の語り芸」でのことだ。

 

実演の後、いちばん興味深く感じたのは、安田さんが「能は舞台で完結している芸能だ」と明言されたことだ。元から観客に向いていない(だから退屈でつまらない)。いや、観客は、舞台を客観的に見るのではなく、舞台に観客である自分の意識を置かなくてはならないとも。「面白く、わかりやすく」に走った芸能と違って、その「つまらなさ」を何百年も繰り返してきたが故に能は残ったというのだ。伝統芸に対するわれわれの思い込みを、逆転させる発言であった。

舞台で観客に語りかける安田さんはごくふつうの「おじさん」なのだが、演目前に愛用の眼鏡を舞台の縁に置くと、忽ち「演者」に切り替わる。そのスイッチは、声だ。第一声を放った瞬間、場の空間が一気に引き締まり、観客の思いを吸い寄せる。語りは「誰かになりきる」わけだが、「隅田川」にしても「夢十夜」にしても安田さんの声に死者は憑依したのだ。希有な体験であった。

 

再び幼稚園の話に戻る。

私の幼稚園では、素読、群読もあれば、般若心経を唱えることもする。先代から引き継いだ音読活動の実践なのだが、1クラス35名の声の共振に私はいつも圧倒される。切り分ければ、一人ひとりの声は頼りなげな幼児のそれに過ぎない。それが、クラス集団になると全体が共鳴箱にようになって響き合うのである。

個別の子どもは名前もあり、性格もある。少子化であればなおさらひとりの重みは増し、意識的に存在するのだが、この子ども集団の共振現象は、群れることで別の集合的な感覚が立ち上がる。固有から共有へ、またそれが普遍へと変わっていく。能の話に置き換えれば、観客として縛り付けられてきた子ども(生徒)の身体の本質が、声を拠り所に教室という舞台に参画していくのではないか。

残念なことに、教えることが中心となる(つまり子どもの身体が受け身となる)小学校以降では、その感覚は消えていくのだけれども…。

 

自己と他者、意識と無意識、あるいは生と死と両者の狭間にグレーな「あわい」がある。「仏教の語り芸」で私の一番の納得は、その「あわい」の夢幻的世界に他者が立ち現れるということだった。舞台の演者に他者が憑くのである。舞台とは、そういう境界上の世界なのだ。

幼稚園の教室のことはおこう。では、寺院がそういう舞台だとしたら、演者とは誰か。数多くの死者を迎え、幾度の儀礼を重ねてきた希有な場所において、われわれの声は響いているのだろうか。それを問い直す。

写真 3