論考:宗教の社会貢献は、本物か。

(2015年04月26日 更新)

現代と宗教を読み解くキーワードとして「宗教の社会貢献」はすっかり定位置を占めているが、この言葉は、東日本大震災のずいぶん以前から生起していたものだ。近年、この言説ほど、宗教の現場の確度を高めたものはないし、宗教者に共感と安堵を与えたものもないのではないか。

 

2000年代、すでに教団既存の社会活動モデルは有名無実化しており、その反動のように、自死遺族やホームレスにかかわる超宗派による僧侶の活動が、同時多発的に起きていた。当初は、志ある僧侶の単独行だったのが、やがてNPOとの協働や教団をも巻き込むように進展していく(2007年から浄土宗で始まった共生・地域文化大賞などはその典型だ)。私もその推進役として旗を降ったひとりかもしれないが、その際、行動基盤となる論理は仏教側からは判で押したように「菩薩行」が挙る程度で、多くは「新しい公共」「もうひとつコミュニティ」など社会学的用語が進んで援用されてきたのだ。
これでいいのだろうか、という漠然とした問題意識があった。仏教・宗教学から論拠が示されないまま、他の学問を駆り出さなければ、現代の宗教行動を理論付けできないジレンマ。いくら文献中心だからといって、それでは古典研究に踏みとどまるしかないではないか。無学な私は、そうもがくしかなかったのである。

 

その私の、大きな光明となったのが、「社会貢献する宗教」の出版(世界思想社)である。2006年から2009年に亘った「宗教と社会」学会のプロジェクトの成果をまとめた同書は、私にとって、目から鱗の画期的書物であった。
詳述は避けるが、この書物は、宗教の正の機能を積極的に評価するものとして出色であった。宗教と社会の互恵性を認め、「宗教の側から社会に働きかけようとする志向性を積極的に評価したい」という宗教学者たちの「思い」のようなものに、胸打たれた。また、僭越な言い方だが、ようやく宗教側は実体の可能性を自己認識したのではなかったか。冒頭に述べた「共感と安堵」とはそのことである。
その後の「宗教の社会貢献」の、とりわけ東日本大震災以降の進展は周知の通りである。とりわけ稲場圭信・大阪大准教授の言論からは、「宗教的利他主義」「無自覚の宗教性」「共感縁」「ソーシャルキャピタル」……新たな用語が開発され、それに応答するように、宗教施設の避難所利用や臨床宗教師などが発生していく。いや、震災だけではない。ビハーラ、グリーフサポート、スピリチュアルケア……(カタカナばかりだが)そういった宗教性の高い活動もまた関心の対象となっていく。現場と学問が併走していくような、新たな局面を迎えたのである。

 

日本の宗教学には20年前、苦い体験がある。
オウム真理教事件の直下、研究対象であったはずの教団とのかかわりについて、多くの糾弾を受けてきた。一部の宗教学者がバッシングを受け、研究者の立場が問われたが、それは宗教と学問の関係のありかたそのものの再構築を促すものだったのかもしれない。
果たして「宗教の社会貢献」が宗教学からの回答なのか、私は答える立場にない。だが、同じく現場の宗教者のひとりとしていえば、まずます複雑化する時代にあって、宗教と社会を媒介する「翻訳者」の役割は重要になるだろうし、それをポストオウムの宗教学と併走することの意義は、けっして小さくないと感じるのである。
「宗教者の活動をもう一度客観化し、一般社会に理解可能にすることが研究者に求められている」(宗教学者島薗進)のである。

 

「社会貢献」という言葉へのためらいは、なくなったわけではない。政教分離の理念との関係性は強く指摘されるところだし、社会活動に比する宗教性の限定という問題もある。またFROの視点から、社会貢献と社会活動は同義ではないという論もある。
かくも議論は百出するのだが、私は、それだけこの用語が、現代の宗教を強く惹き付けていると感じてならない。

 

*5月27日(水)18時30分より、「宗教の社会貢献は、本物か」の公開討議を行います。ゲスト稲場圭信大阪大准教授。参加申し込みは ビヨンド・サイレンス~ポストオウムの20年を語る 第2回「宗教の社会貢献は、本物か」