FRO。宗教の社会活動を読み直す。

(2015年04月19日 更新)

私の周辺には、若い時分から社会活動をはじめ、結果、大学の教員やNPOや社会福祉法人の代表者になった友人が少なくない。最初は個人の信念や能力が際立つが、組織や運営が整備されてくるほど、当人の人格とか生き方は目立たなくなっていく。もちろん社会セクターであるのだから、それが妥当であることは言うまでもない。

ただ、そういった人たちに少なからず共通する傾向があることに気づく。私の友人だからというわけではないのだろうが、彼らは次第に宗教に接近しはじめる。大学教員の彼は、仏教系大学に進んだし、NPOの彼は、やはり仏教系大学の通信講座を受講している。もうひとりからは、得度を考えていると打ち明けられたこともある。

信仰を御籏に掲げ、組織運動を推進しようというような大仰なものではない。もっと個人に限った内省的な営みなのだが、でも、組織者としての彼らが宗教を学ぶことが社会活動とまったく無関係、とも言い切れない。格差や不寛容、あるいは悲嘆やケアに取り組む彼らの宗教的素養が、そこににじみ出て当然だからだ。

 

若き宗教社会学者の白波瀬達也の新著「宗教の社会貢献を問い直す」を読んでいると、FRO(Faith-related-organizationという聞き慣れない言葉が出て来る。宗教を基盤とした社会団体をFBO(Faith-based-organization)と呼ぶのは知っていたが、FROは宗教と結びつきのある広義の社会団体を指すらしい。

何がどう違うのか、書物から引いてみる。

「日本の場合、宗教団体を母体とする組織(FBO)がないわけではないが、社会福祉や公共政策の領域におけるプレゼンスは欧米のように大きくない。むしろ日本では特定の宗教をもつ者がそうでない者とコラボレーションをするなかで事業が展開されていたり、宗教団体が公的機関との協働を展開するために便宜的に世俗的な法人として活動を行ったりするケースが目立つ」

同書では、そこでFROのいくつかの類型を立て、具体的な実践を説いてくれるのだが、私の関心はそれ以外にも広がる。

 

お寺とNPOの協働モデルを、ずっと提唱してきたが、果たしてそれが宗教の社会活動であるのか、そうでないのか、いろいろ異論があった。

應典院を例にするなら、お寺でありながら、FBOと少し違う。演劇やアートを、信仰運動として取り組んでいるわけではない。だが、そこで宗教的メッセージを述べたり、あるいはそれを作品化したりすることは、FROとして顕在化されている。

また、FBOは日本の場合、政教分離の原則にふれるが、FROとしての應典院は、應典院寺町倶楽部というNPOと連携しており、その若者支援活動に対し、行政や企業から助成金を受けた経緯もある。

「FROと信仰の関係にグラデーションがあること、そしてFROが公的機関と協働喚起を結ぶ場合がある」(同書)ことにも実感をおぼえる。

應典院だけではない。FROのフレームを用いることで、宗教の社会活動の概念が大きく変わるし、恐らくはこれまでの宗教と社会の関係をドラスチックに転化させる種子を埋蔵しているのではないか。

 

いや、宗教者や宗教団体だけではない。冒頭に述べた、宗教に親しむ人たちによる社会活動は、これをもうひとつのFROといってよいのだろうか。宗教を、布教や伝道の世界に閉じ込めず、社会変革や創造の道標として開いていくのであれば、じつはFROの裾野は無限に広がっていると考えられるのである。