お寺の幼稚園、完成。小さな修行僧たち。

(2015年03月30日 更新)

昨日、パドマ幼稚園の園舎改修工事の竣工式があった。計画が立ち上がってから4年越し、去年の3月から丸一年の工期を経て、ようやくこの日を迎えることができた。

前の道路を挟んで一望するとよくわかるのだが、パドマ幼稚園はお寺の幼稚園である。この場所は元は、大蓮寺の巨大な伽藍の跡地。恐らくは大勢の修行僧たちが、念仏礼拝行に打ち込んだ聖地である。

今も園舎の向こうに大蓮寺の山門と應典院の本堂が見え、その向こうは、歴史ある寺町の伽藍が連なる。少し質感は異なるが、お寺の土塀がそのまま園舎のある北側へと続く。新しくなった玄関エントランスも、お堂を模しており、板張りの床に格天井、正面にお釈迦さまの絵図が。表からまっすぐ続く瓦敷きのような廊下も、禅寺のそれを連想させる。

もちろん、お寺が経営母体の幼稚園だから、という理由もある。だが、それ以上に私の心にあるのは、この幼稚園こそお寺としての教育の理想を実現しようとする場でありたいという、強い思いがあるからだ。

冬の子どもたちの様子を見るがいい。裸のままの園児が朝のローテーションや朝礼に取り組んでいる姿を見るだけで、身が引き締まるが、それが部屋に帰って、全員が静かな瞑想に入ると様子は一変する。目を閉じ、心を開いて、仏を想う。無垢であり無心であるが、怠らない。その慎みと励みの姿に胸打たれるのは私だけではないだろう。

その静寂さの向こうでは、別のクラスの子どもたちが唱える般若心経がかすかに聞こえてくる。念仏や読経はもちろん、儀礼や作法、所作の隅々まで、ここには「現代のお寺」を感じる光景にあふれている。

幼稚園は、教育の場である。親の都合を窺いながら、教育はできない。人間とは何か、家族とは社会とは、という本質的命題を、幼児期という人間の原初に据えて問い続ける場所でなくてはならない。親、家族、また地域社会にとって、子どもを規準に生き直す場が幼稚園なのだと思う。

であるならば、ここで生きる子どもたちは、小さな修行僧だ。日々の勤め(日課)に励み、鍛錬を怠らない。ふるまい、ことば、こころのはたらきをいつも意識する。成果や効果を求めるのではなく、仲間とともに存在そのものを高めあう。ここでは、まだ人間の共同体に希望を失わない。

4月、また子どもたちが帰って来る。この美しい器に、どんなたましいが育まれていくのか、それがたいそう待ち遠しい。

20150328園舎写真