いつから日本映画はテレビの劇場版に落ちぶれたのだろう。お手軽な映画に飼いならされていくと、うぶな観客たちは映画への敬意や畏れを失う。それは映画という表現の危機でもある。
「冷たい熱帯魚」は、ある意味、映画の極限を描く。道徳や倫理を踏みにじり、エロとグロでわれわれを圧倒する。映画館の暗闇でしか許されない禁断の物語である。
映画は実在する猟奇殺人事件にヒントを得ている。小さな熱帯魚店を営む社本の家庭では、年頃の娘が若い後妻に反発しており、そのため夫婦の間にも亀裂が生じていた。ある日、娘が起こしたささいな事件をきっかけに同業者の村田と知り合う。最初はその人柄にほだされて事業を手伝うことになるのだが、次第に村田がモンスターの本性を現し、恐ろしい猟奇殺人事件に巻き込まれていく……。暴力、裏切り、陵辱、殺人、血まみれの肉塊が飛び交う場面は正視に耐えない。
この映画には希望はない。救いもない。遺体を切断する山小屋には、なぜか薄汚れたキリスト像が立っている。犯行に使われるのも神具である。宗教がまとう愛や友情も丸ごと否定しながら、それでも生き延びようとする背徳者たちを描くのだ。鬼才・園子温監督はこううそぶく。「もう観客に癒しも慰めも与えない。残酷な事実だけを提供します」。
俳優陣も異能そろいだが、中でも村田を演じるでんでんが凄まじい。欲望の赴くまま生きながら、しかし強烈な悪の魅力を放つのは、彼の言う「自分の脚で立っているから」だろう。善悪を問うのではない。狂気が世界を凌駕するのだ。
気軽に人に勧められる作品ではない。だが、映画という表現の闇にふれるために、見ておくべき一本だと思う。(2010年 日本映画)
