映画は視覚の欲望を充たさなくてはならない。見たいものを現実以上に見せてこそ、映画のリアルは成り立つのだが、極限のホロコーストを描いた映画「サウルの息子」は真逆に、「見せない」ことで想像力を揺さぶる新しい表現に挑戦している。
アウシュビッツのビルケナウ収容所で特務班員、ゾンダーコマンドとして働くハンガリー系ユダヤ人サウルが主人公。彼の仕事は欧州各地から移送されてくる同朋のガス室への誘導と後始末だ。ある日、生き残った息子と思しき少年を発見したものの、少年はすぐにナチスによって処刑されてしまう。サウルは少年の遺体をユダヤ教の教義に則って埋葬しようと奔走を始める…。
「部品」と称される夥しい屍体を搬出して、焼却する場面など、残虐極まりないシーンの連続なのだが、カメラは常にサウルに寄り添うだけで、その背後で起こる残忍な事態にけっして焦点を合わせようとしない。それはサウルの現実逃避の視点か、狂気ゆえの無関心なのか、あるいは不条理な状況に対する思考停止を表すのか、いずれにせよ「見せない」ことで恐怖の感覚が肌につきまとい、観る者を震撼させる。
人間性を封印したようなサウルが、息子の埋葬に異様なこだわりを示す。何としてもラビ(聖職者)を探し出し、土葬(ユダヤ教では火葬はタブー)しようと、ただひとり違う目的のために、阿鼻叫喚の地獄の中を疾走するのだ。死者のために生者が文字通り瀕死の生命を投げ打つのである。絶望ゆえの希望の喘ぎといえばいいだろうか。
アウシュビッツ解放70周年を記念してつくられたというが、これがデビュー作という30代のネメシュ・ラースロー監督の手腕に驚愕する。映画にしかできないことがある。昨年のカンヌ映画祭グランプリ、アカデミー賞外国語映画賞受賞。(2014年・ハンガリー映画)
