〈映画評〉新しい師弟の関係描く。アニメ「バケモノの子」

職人の徒弟制度が消滅して以来、いま師弟教育といわれるような関係はほとんど見られない。血統で承継する一部の伝統世界を除けば、教育は最大の効率と着実な成果を目指す。かつては師資相承といわれた仏教の師弟関係も、実態は「職能」を育てる人材教育システムと落ちぶれつつある。もはや圧倒的な師匠は存在しないに等しい。

俗世にそんな師匠が存在しないのなら、異界に求めようと、人間界とバケモノ界(他界)の交感と葛藤を描いたのが、細田守監督の「バケモノの子」だ。

物語はシンプルだ。人間界と隣り合わせのように、バケモノの棲む異界がある。2つの世界は交わることがないが、放浪の少年・蓮がバケモノ・熊徹に誘われて異界へと越境する。強くなりたいと熊徹に弟子入りした蓮は、やがて若者となって人間界と行き来するようになり、そこでかつて自分を捨てた父親や少女・楓とも再会する。新しい価値観や生きがいを得た蓮は、それから2つの世界を巻き込む大事件に立ち向かうことになる……。

ひ弱な若者が師匠と出会って、一人前の人間の育つという成長譚はよくある。その場合、師匠はすぐれた超人のように描かれるのだが、粗野なバケモノには人格も知識も伴わない。だから本作では蓮を人間界に行き交わせ、高校生の楓から人間の知識を授けさせるのだが、彼女ももうひとりの師匠といって差し支えない。

いや、じつはバケモノも少女も孤独と不安を抱えた存在なのだが、蓮という少年と出会って、感化するよろこびに目覚め、生き方を変えるのだ。上から支配する師弟ではなく、互いに響き合う師弟関係に気づくのである。

ふと思う。寺の世界では、伝統の師弟が消えて世俗の親子関係ばかりに堕したといわれる。それがすべて弊害なのか。世襲をあげつらう前に、親と子が互いに気づきあう新しい師弟関係がつくれないものだろうか。(2015・日本映画)