「怒り」は本年屈指の日本映画である。誰もが抱える罪意識をあぶり出すような劇構成と、日本を代表する俳優陣の熱演ぶりが凄まじい。
冒頭八王子で起きた殺人事件を発端に、東京と千葉、沖縄で起きる3つの物語が入り交じる。家族を惨殺して、血文字の「怒り」を残した犯人は誰か。身元不詳の3人の男をめぐり、「あいつが犯人ではないか」という疑念がじわじわと膨らんでいく 殺人ミステリーが通奏基音となっているが、真犯人を挙げることが目的ではない。事件を縦糸に、そういった違和、懸念、不審、といった感情が複雑にもつれあい、一つの流れとなって収斂していく。本来事件とは無関係な残り2つの物語がいかに怪しいかと焚き付けるあたりが、見事だ。
一方で、この映画は「信じること」の困難を描いている。素性の知れない相手をどう受け入れ、どう愛するのか。過去を赦し、未来を約束することができるのか。疑う/疑われるの関係は、立場を入れ替えながら、人間どうしの本源的な関係性の不信を描いている。それは観る者にも、胸の奥深く仕舞い込んだ罪業の意識を疼かせるだろう。
しかし、それでも映画は絶望しない。不信ゆえに苛まれた者が向かう浄化への道を、それでも「信じ抜く」と指し示しているからだ。不信を凌駕するものは、信でしかない。犯人と疑われる男を愛してしまった宮崎あおいのイノセンスが際立つのは、そのせいである。
監督の李相日はこう言っている。「信じることで失うものもあるし、当然、疑って失うものもある。でも結局、そこも含めて人は人を信じていく。良くも悪くもそれを繰り返していくしかない」
沖縄パートでは、米兵によるレイプ事件が生々しく描かれる。個人の不信と世界の不信が同心円状にあることを、思い知る。剛気な作家精神を感じた。(2016年・日本映画)