〈映画評〉アトラクションとしてのエイリアン。映画「インデペンデンス・デイ リサージェンス」

見世物としての映画史は、絶えず技術革新とともに進展してきた。トーキーしかり、カラーしかり、シネラマや最近だと3D映画もそうだ。トーキーの登場が、ミュージカル映画やギャング映画を押し上げたように、3Dはコンピュータグラフィックスによって巨大な仮想世界を作り上げた。大事故、大災害、そして、エイリアンの侵略などを描く一連のディザスター・ムービーだ。今やアメリカ映画のお家芸であり、「タイタニック」や「スター・ウォーズ」はその金字塔といえるだろう。

反面、近年は映像のインパクトだけを強調した、中身の薄い空疎な作品も目立つ。映画「インデペンデンス・デイ リサージェンス」も前作人気に頼った凡作である。

筋は単純だ。超巨大な宇宙船とエイリアン軍団が地球に襲来し、人類一丸となってこれと闘う。画面は破壊と混乱の連続なのだが、どうにも「戦争ごっこ」の感が否めず、恐怖感も切迫感も及んでこない。テーマパークのアトラクション映像を見ているようだ。

映画における巨大なマザーシップの登場は、「未知との遭遇」(78年)を端緒とする。小さなエイリアンは人間に融和と共生を求めるのだが、それは当時ベトナム戦争で疲弊した米国人の心を癒しただろう。また、あの昆虫的なエイリアンの造形は「エイリアン」(79年)を母胎としているが、そこには抗いようのない無力状態に追い込まれた人間の恐怖と孤立が描かれていた。SF映画と呼ばれていた70年代まで、エイリアンは地球を襲う侵略者ではなく、それが友好であれ闘争であれ、はっきりとした「異形の他者」としての存在感を持ち合わせていた。

世界中でテロが連鎖し、コミュニティの連帯が分断されている。失われた秩序や規範をどう再構築していくのか、エイリアンという他者とのコミュニケーションはただ迎え撃つだけではない、新たな局面に入っていると思う。監督ローランド・エメリッヒ。(2016年・米国)