供養の姿は実に多様である。死者の霊に対し冥福を祈ることすべてであって、供物(くもつ)はいわばそのための媒介である。仏前の香華燈明もそうだし、僧侶の念仏も、仕上げの飲食も、供養といって差し支えない。
もちろん仏事だけに伴うものとは限らない。たまたま法事がお寺で伴われるから、供養はお寺限定のように受け止められているかもしれないが、本来の意味はもっと多義的である。特定の誰かでなくとも、死者への想いと行為のすべて供養なのであって、必ずしも宗教儀礼が伴わなくてもよい。
その供養が豊かな表情を見たのが、先月開催された「極楽あそび芸術祭」での数々の場面であった。ここに位牌も塔婆も存在しない。供養の宛先が特定されない。若い人にとって、その対象は漠然とした「この世にいない人」のイメージであって、それがかえって供養のポテンシャル?を拡張する。
「ぬいぐるみ供養」もそうだが、「あそびと祈りのインスタレーション」(写真)は明らかに賽の河原を再現していたし、「なりきり25菩薩バンド」は子どもと音楽を通して供養を試みているようだった。下寺町を歩いた「極楽まちあるき」は、都市巡礼ともいえる。そのまま供養と言えないのであれば、これは表現の姿を借りた供養のレッスンだ。
「死者の民主主義」著者・畑中章宏さんは、「今生きている我々がごく少数であり、多数を占める死者やこれから生まれてくる人のことを、どう民主主義に生かすのか」を考えるべきという(朝日1031)。未来への投資はいうが、過去に対しては、結果の見えている歴史検証ばかりで、そこにリスペクトや希望を見出すことは少ない。表現でも言葉でも、モノでもいい。供養というアクションは、自己や現在を優先するエゴから、もう一度世界を見つめ直す、転換点を差し示してくれているのではないか。