出開帳とは、自社が秘仏等を他の場所で「特別公開」したところから端を発します。大蓮寺の古い文献にも、各地の名刹の寺宝の出開帳があったと記録されています。今でいえば、美術館で開催される宝物展のような趣でしょうか。
もちろん当時は美術品のように感取する人はごく少数だったでしょう。秘仏、寺宝を「拝ませていただく」わけですから、まさに感涙にむせぶ「法悦」体験であったことでしょう。現代においてもさまざまな寺宝の展示会はありますが、いずれも美術品として鑑賞されるわけで、そこが大きな違いといえます。
仏教に限らず、ある時代まで、伝統的な芸術の多くはキリスト絵画や仏像彫刻のように、神や仏として造形されてきました。芸術と宗教は一体のものとして、人々の信心の涵養に強く関連してきました。人間にとって心の探究あるいは人格の形成とは、イコール神仏を崇め、芸術に接することによって醸成されたのかと思います。
片や現代において、前述した通り、多くは文化財として、美術館で展示され、鑑賞される対象です。美術館は信心に目覚める場所ではないし、儀礼が営まれるわけでもありません。形はあるが、宗教心というものは棚上げされ、かろうじて仏殿に祀られる仏像や仏教絵画が、本来の意味を留めているといえるかもしれません。
浄土宗開宗850年記念として、10月より「法然と極楽浄土」展が京都で開催されます。平生は、本山や名刹に所蔵される国宝・名宝が、国立博物館に一堂に会し、多くの来場者に公開されることになります。
もちろんその文化的意義は十分認識しているのですが、しかし、若干の違和感が残ります。
当日、ショーケースに陳列された阿弥陀様に手を合わせる人はわずかでしょう。人目を憚るかもしれない。美術的価値はあっても、そこに宗教的価値を見出したり、表出することは難しいのです。
阿弥陀仏像であれ来迎図であれ、すべての浄土美術とは、南無阿弥陀仏を申すための「助業」(じょごう)であって、それを忘れてはいささか本末転倒であるような気がします。長い時間、先人たちが「芸術」に込めてきた祈りを、現代風の美術的興味や関心だけに収斂されては、畏れ多く感じるのは私だけでしょうか。そこは「別物」として切り分けて考えるべきでしょうか。
「出開帳」の昔に戻れば、それは待ち焦がれてきた仏と出会う、千載一遇の結縁でありました。老若男女、随喜の涙を流したと記録にあります。昔も今も同じです。初めて見るであろう仏像や絵図を通して、極楽浄土へと思いを馳せていただく機会にしてほしいと念じます。またその機縁を作るのは、美術館ではなく、私たち浄土宗の人々の役目でもあると感じています。