墓掃除。清められるのはわたし自身。

(2024年07月31日 更新)

日本の学校で児童がみんなで掃除をするのはごく日常的な光景ですが、これが海外で評判となって、「日本式教育」として取り入れている国がいくつもあるそうです。

欧米では、掃除は清掃員が担当するものであって、学生や児童が任ぜられるという考えはありません。サッカーの国際大会で、日本人サポーターがスタジアムのゴミ拾いをした話が、世界中の話題になる程です。それほど掃除は日本人の文化として根付いています。

私も恥ずかしながら、毎朝の門前の清掃が日課になっています。亡き師僧(秋田光茂)と一緒に30代の頃から続けてきた習慣ですが、格別の意識はありません。僧侶としての心得「一に掃除、二に勤行、三に学問」を励行しているだけです。法要や法話より、僧侶の本分はまずは掃除なのです。

掃除というのは理不尽なもので、掃いても掃いてもキリがありません。まして門前の吸い殻、ペットボトルなど他人の不始末であって、こちらが引き受ける道理はありません。それに努めたところで、感謝されるわけでも、尊敬されるわけでもない、完全に陰徳の振る舞いです。

しかし、掃除を終えた後の気持ちよさは何にも代え難い。最初は面倒に感じることもあるが、終わってみると清々しい。清々しいから、楽しい、その楽しさがもはや日課となれば、億劫さとか煩わしさはなくなっていくのです。欲しいものを買うとか、食べたいものを食べるといった充足とは異質の楽しさです。

掃除には、かように掃除をしている当人の心を磨き、清めます。掃除をしないと、自分の心が汚れたままになる。つまり場を清めることは、心を清めることと同じなのです。義務や感謝のためでなく、掃除は自己を整える(清める)ための心のトレーニングなのでしょう。

ささやかと言えば実にささやかです。でも、こうした小さなよろこびの積み重ねが日々を楽しむという心根を作っているのであり、言い換えれば日々雑事を見事な結晶としていくことが人生の目的とも言えるのではないでしょうか。

8月はお盆の季節。お墓掃除を兼ねてお参りに行かれる方も多いことでしょう。ご先祖様に感謝の念を伝えながら、どうぞ心を清める大事なひとときとしていただきたいものです(ただし熱中症には十分気をつけて)。