初めてのお寺入門。 仏事とは信心の鋳型。

(2020年08月25日 更新)

緊急事態宣言が解けた頃から、当山の永代供養のお墓の見学が多くなりました。

ほとんど全員がお寺は初心者の方々ばかり。ナマのお坊さんと初めて話をした、という人もいたそうです。仏事のたしなみが失われたと嘆くより、それだけ仏教と実社会の距離ができてしまったと考えるべきでしょう。お寺の職員がわかりやすくあるよういろいろな案内や説明に努めています。

中には、最近家族を亡くしたので、すぐに納骨を、というケースもあります。僧侶が出勤して納骨式や開眼作法を行うのですが、こうした儀式や作法にも初めて直面することになる。慣れないことが多く、億劫なこともあるかもしれません。職員にも仏事の基本について質問や相談されることが多いのですが、しかし、至ってみなさん慎み深く厳かであることは一様なのです。

お客様本位の終活サービスとは違って、仏事という保つべき形があり、伝統を支える基準や規範があることに尊さを感じておられるのではないでしょうか。

仏教は堅苦しい、古臭いと敬遠されてきたのも事実です。仏事はその典型で、自由志向の現代人には、窮屈でもあり、押し付けられている感があるのでしょう。確かにそういった一面もありますが、しかし、大切な人を供養するのに、それぞれ自由気儘なやり方に任せられては、逆に戸惑ってしまうことはないでしょうか。

宗教行為とはすべからく共同体のたしなみ(平常の心構え)として長い間継承されてきました。仏事はそれが最も合理的な形で定着したもので、一つひとつの儀式や作法にも当然のことですが、意味があり願いが込められています。古代から受け継がれてきた、いわば筋金入りの様式がここには残っているのです。

ともいき堂での法要を終えた副住職から、参列者のお念仏の声が聞かれたと報告を聞きます。初めてのお寺に出会ったからこそ、それほど仏事に対し謙虚であり、また清浄である方々なのでしょう。ありがたいことです。

大蓮寺の永代供養墓は宗派不問です。しかし、お寺とのご縁が生まれれば、自ずと願いは形となっていくものです。仏事とは、いわば信心の鋳型なのです。