瞑想と実行機能。がまんするということ。

(2020年02月18日 更新)

うちの幼稚園では瞑想が日課である。学年や時期において違うが、長くて5分程度、静寂な時間を維持する。激しく動き回る年頃である。自然でない、という人もいるかもしれない。

5分の瞑想を終えたその後からは、元気いっぱいの動的な時間を過ごすのだが、果たしてそれにどんな意味があるのか、最近読んだ発達心理の本に「実行機能を育てるマインドフルネス」という話があって腑に落ちた。

実行機能とは心理学や神経科学の専門用語なのだが、要するに「目標達成のために自分の欲求や考えを自制する能力」であるらしい(「自分をコントロールする力」森口佑介)。目標達成というと立派な計画のように思うが、幼児であるからもっと身近な目標(次のトランポリンを跳びたいから、整列して順番を待つというような)を実現するために、自分を一時的に抑制したり、我慢することと考えてよい。実際に、著者はタイの大学の要請で、保育園児の実行機能を調べているが、マインドフルネスは非常に有効との結果を得ている。

単に「我慢強い子ども」という話ではない。実行機能は子ども期に著しく発達して、その向上は大人になってからの人生の成功に相関するというから、ことは重大だ(日本ではそういう情報はほとんどないが、イギリスやニュージーランドの長期研究で結果は明らかとなっている)。

しつけを始め、私たちの生活には昔から決まった型があり作法があった。今風に思えば、多くは我慢を要するし、意味がよくわからない。黙って「しつづける」(しつけの語源)ことのないまま、少しでも高い効率や合理性を要求する。しつけは旧弊として退かされ、その場その場の快楽を充足させているに過ぎないのではないか。

法事にも同じようなことが言えないだろうか。消費者的感覚から言えば、退屈で冗長なものなのかもしれないが、もっとうまく運用することで、生活をリセットしたり、人生を再構成する意味を見出したりできるはずだ。法事を終えて気持ちが落ち着く、すっきりするという心境は、実行機能のそれと似ている。

我慢できない人が多くなっている。あおり運転もカスタマーハラスメントも、大人の実行機能の劣化といえるだろう。効率や合理性を超えて、内在する時間感覚をどう延伸させていくのか、あるいはそれをどう意図的に身体化していくか、幼児の瞑想から、気づかされることは多い。