さよなら2019年。一年を、祈りで締めくくろう。

(2019年12月29日 更新)

 暮れに講演の仕事があり広島を訪れました。初めてだったのですが、今年リニューアルされた広島平和資料館(原爆資料館)を見学しました。展示内容には圧倒されたのですが、私のようなツーリストに加えて、外国人や、小学生や中学生の団体の姿をたくさん見かけました。

 「広島には、祈りがある」とかの地の友人が言いました。「誰にも身近なところに被爆者がいて、子どもの頃から資料館や語り部から悲劇を見聞きしてきた。自分の故郷が、世界でも重要な聖地なんだという自覚は小学生にもある」。そうかもしれないと思いました。広島や長崎は、平和のシンボルであると同時に、無辜の死者へ永久的に祈りが捧げられる巨大な礼拝堂なのでしょう。そういう祈りを湛えた都市には謙虚さと識見を感じます。祝祭に浮かれてばかりの都市とは格が違います。

 今年、いろいろな祈りがありました。たいせつな家族を亡くし、幾度も霊前に祈りを捧げた人。多くの無縁の御霊に祈念する僧侶。退位即位された天皇陛下の祈り。一方でわが子の合格を祈る若い両親がいたり、ラグビーW杯では誰もが日本チームの勝利を祈りました。

 世はAI時代初頭を迎えています。仕事も学習も、機械に代替されていくほど、私たち人間にだけ残されたものは何か、意識しないわけにはいきません。むろんロボットは祈りません。逆説的ですが、祈りが不確定で実証できない「非科学的」行為だから、そこに稀なる人間性を見出すことができると言えるのではないでしょうか。

 祈りにデータは不要です。言葉さえいらないのかもしれない。必要なものは掛け替えのない私のこの生身の身体と、ともに祈りを重ねる家族・仲間とのつながりの感覚だけではないか、と思うのです。あなたは誰に、何に祈りましたか。南無阿弥陀仏。