8月を送る。季節を縁取る。

(2019年09月02日 更新)
長い8月が終わろうとしています。遅い梅雨が知らぬ間に開けて、去年の恐怖に比べればマシと言いながら猛暑に喘ぎ、盆踊りの夜はなんと大雨に祟られました。散々だった8月お盆月です。
大蓮寺では、4日の新ぼとけ合同供養会に始まり、棚経、施餓鬼、地蔵盆、さらに永代供養墓・自然の集いで締めくくります(お葬式が2件)。その間、幾度回向を繰り返したか、僧侶ならば当たり前のことですが、改めて自分の役割を痛感します。

季節感が失われました。同様に生老病死の感覚も、清潔感だけが際立って、陰影に乏しく、パサパサと乾燥した触感しかありません。今、生きているのか死んでいるのか。今、夏なのか、秋なのか。一年はクリスマスやバレンタインや、キラキラしたイベントで続いているわけではありません。

酷暑の中をヘルメットの僧侶がスクーターで駆け抜けます。衣の下は汗だくでしょうに、でもそれはなくてはならない光景です。初盆を迎える家では早朝から、家族総出で棚経参りを迎えます。施餓鬼に初めて参拝した娘に、亡母の塔婆を渡した時の戸惑いのまなざし。そういう夏のイメージショットは鮮やかに私の脳裏に残っています。春でもない、ましてや冬でもない。夏でなくてはならないカットなのです。

死者がこの季節の主人公だとしたら、僧侶はその慎ましい翻訳家でしょうか。この歳になって、8月を縁取る、その役割に自覚と誇りが少し持てるようになった。そう思います。