多死と単身の時代、 菩提寺にできることは何か。

(2018年01月11日 更新)

 檀家のAさんの姪御さんから突然の連絡がありました。叔父が施設で亡くなった。葬儀はそちらで済ませた。独り住まいだった家も払うので、仏壇の魂抜きに来てほしい。大意そういう内容でした。

 独身のAさんは長くお母様と二人住まいで、15年ほど前までは先代とお盆・正月をお参りに伺っていました。お身体の具合でお参りが中断した後も、しばらくはお塔婆を申し込んでいただきましたが、近年は音信が途絶えていたところの連絡でした。

 久しぶりにお尋ねしたお家は、床が一部抜け寒々としていました。すでに家財や遺品回収も終え、最後にひとつ残された仏壇の中には、Aさんが愛したお母様のお位牌がひっそりと祀られていました。

 Aさんの晩年の様子は姪御さんもよくわからなかったようです。ひとりさびしいお旅立ちだったのかもしれません。
 
 2025年問題が取り沙汰されます。多死と単身、貧困など、社会問題が一気に押し寄せる時代の変化を、寺の住職として感じないわけにはいきません。Aさんに限らず、何らかの事情でお葬式が出せない、という声は、当山の檀家さんの中にもないわけではなく、現実は相当にきびしい状況にあると認識しています。

 私の心残りは、信心深いAさんのお葬式を勤めることが叶わなかったことです。単身で、また意思伝達に不自由があれば、お寺に連絡というわけにもいかないでしょう。長く保ってこられた信仰の人生をどのように締めくくるのか、これからはご本人だけでなく菩提寺の大きな課題でもあると考えています。

 葬儀についていろいろ世間の論議があります。当山は夏に独自の家族葬を発表しました。さらに何ができるのか、深く考えさせられる歳末となりました。