日本人はなぜ死者と交感するのか。8月お盆の追想記。

(2017年09月19日 更新)

お盆の8月が終りました。夏休み、帰省、そして終戦などが重なって、この月は日本人にとって独特の空気感を感じさせます。棚経、施餓鬼、地蔵盆とお寺も一年で最も多忙な季節となります。

ふと感じるのです。なぜ日本人はかくも8月を祈りとともに過ごすのでしょうか。そこには独自の先祖観、死者像があると思います。

かつて日本の伝統的な共同体には、生者と死者が共生していました。何もかも生きている者だけが優先されるのではなく、重要な決定事項には、ここにはいない死者からの承認や了解を必要としました。先祖を祀る儀礼はそのために開発されてきたともいえるのですが、別の言い方をすれば、私たち生者の絶対優位を押しとどめるために、そうやって亡くなった人々の声を聞き取ろうとしてきたのではなかったのでしょうか。
 
現代は若さや健康など、生きている者の価値ばかり崇拝され、死に至るプロセスとしての老いや病は医療・福祉の対象として回収されていきます。しかし若さと元気だけでこれからの超高齢社会を乗り切ることはできません。多死と単身が増大する社会にあって、死は日常の光景として蘇りつつあります。

医療と福祉が充実すれば、死を受け容れられるわけではありません。そこには死に対する考え方、文化や風習といった死生観がどうしても必要です。お盆の8月は、たえず死者と交感を重ねてきた日本人の豊かな感性を表す、たいせつな季節なのだと思います。

思想家の内田樹さんは、こう言っています。「死者たちに贈られたものを足がかりにして、未来の世代に手を差し伸べて、つねに彼らと共にいることによって初めて共同体は調う」。同感です。