意味を求めず、思いを読み取る。 森友学園の素読に思うこと。

(2017年05月11日 更新)

テレビに映った教育勅語の素読場面には衝撃を覚えました。幼気な子どもが、一斉に何かに憑かれたように唱える光景を、奇異に感じた人も少なくなかったのではないでしょうか。例の森友学園の幼稚園のことです。教育勅語の是非は、いろんな意見があるので措いておきますが、幼児の素読まで「強制的」との誤解を受けてはたまりません。そもそも素読は日本人に適した古来からの学習法だからです。

素読とは「意味は考えず、文字だけを声に出して読むこと」です。江戸期以来の幼少教育の主流であり、現代の音読ブームにつながりますが、「意味は考えない」のだから、テキストは何でもいいのではありません。「素読を通じて〈身体化されたテキスト〉は、それ自体で直ちに実用の役に立つような知識ではない」と、素読研究者の辻本雅史(京大名誉教授)は言います。
 
「しかしやがて実践的な体験を重ねるうちに、それらはさまざまな場面のうちに新たなリアリティーをもって実感され、よみがえってくる。いわば具体的な実践の場において実感的にテキストの意味が理解され、かつそれが道徳的な実践主体として、人としての生き方のうちに具体化されて示されるようなものである」(『学びの復権』)
 
つまり、意味を越えたところにある思いを身体に埋め込んでいく考え方です。それは実践的かつ普遍的なものでなくてはならない。一流のテキストは、それを唱える子どもたちの「生き方のうちに(やがて)具体化」されるからです。
 
素読のテキストは何であるべきか。古来より仏典が素読されてきたように、世代を越えて共有される「読まれるべき言葉」を、改めて求めなくてはならないと思うのです。