お粥と葬式。お寺の力となるために。

(2016年02月06日 更新)

大蓮寺では通夜があった翌朝、泊まりの遺族に朝食がもてなされる。好まない人もいるから、いつでも必ずというわけではないが、わが寺庭の心尽くしである。大人数であればおにぎり、若い人ならパンとコーヒー、息子夫婦なら一汁一菜の和食と、それなりの配慮があって感心する。

そもそもお寺の葬式は激減している。あったとしても、2軒に一軒は、通夜が終われば、明日、また出直しますと、遺族は自宅へ帰ってしまう。これが近代的な葬儀会館であれば、ホテルみたいなシングルルームが用意されているのだろうが、お寺では昔から座敷に貸し布団である。夏は暑く、冬は寒い。それでも泊まりこむ人に、ありがとうの気持でいつからか寺庭手製の朝食が用意されることになった。皆、予期せぬことなので、驚きつつ笑顔になる。

 

この日は、妻を喪った老夫ひとりだけだったので、土鍋のお粥がふるまわれた。昔なじみの人だったので、私も箸を取る。檀家と導師が向かい合って、早朝から粥をすするのである。お寺の葬式ならではだ。

昭和ヒト桁の老夫が、愛妻を語るのも気恥ずかしいだろうが、見合いで出会った頃、子どもたちに恵まれたこと、戦後の商売のこと……梅干し、焼きたらこ、白菜の漬け物をかじりながら、人生を移ろう言葉が続く。なんとゆたかな時間だろう。

 

お寺で葬式を勤める、というのは、ただ儀式とか作法だけをいうのではない。お寺という異空間ではあるが、どこかに自分の記憶が埋め込まれた思い出の場所で、何かを再確認するような、そういうエートス全体をいうのではないか。とりわけ悲しみや痛み、さびしさといった、世間では否定されがちな感情を引き受けながら、それでもともに生きていこうと励まし合うのである。

お粥がそうであるように、遺族と交わされる営みすべてが、お寺の葬式の力とならなくてはならない。そういう寺葬を、やってきたいと思うのである。

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