受け念仏と同称十念。「仏教の語り芸 教えを語る」

(2015年11月27日 更新)

一昨日の夜、應典院で「セッション! 仏教の語り芸」の第一夜があった。テーマは「教えを語る」。説教について実演と対話があった。久しぶりに満堂の盛況となった。

浄土宗の私には馴染みがないのだが、節談の説教には聴衆からの「受け念仏」を伴う。説教者の話の途中で、聴き手が感じ入ったところで、思わず「南無阿弥陀仏…」と唱えるもの。趣旨は違うが、歌舞伎の大向こうにも似ている。

「感じ入る」というが、自分が意図して唱えられるものではない。ああ、いい教えをいただいたと感謝の気持ちをもって、自ずと身体が反応し、口をついて出て来る念仏だ。タイミングもあるかもしれないが、重要なのはどれだけ聞き込んできたか、という「受け」る側の経験量なのだろう。非常に高い受信感度を備えた身体というべきか。

この日も話の感極まったところで、説教僧が全身を乗り出し、腕を振り上げて、ズンズン語りを押し込んで来る。その身体に共振するようにフロアから「なまんだぶ、なまんだぶ」と念仏が沸き上がる。ひとつ起こると、念仏は会場内に連鎖して波を描く。それが御同朋の連帯を紡ぐのである。それに、私はたいそう共鳴した。

むろん、應典院は浄土宗の寺院である。開会と閉会時に、フロアのみなさんに私から呼びかけて同称十念を称えた。こちらは浄土宗の作法で、「南無阿弥陀仏」を一斉に声を揃えて称えるのである。全員で唱和するのだから、声の総量に芯が入り、場が一気に高まる。ここでも念仏の厚みに圧倒される。

 

真宗の念仏と浄土宗の念仏が同じ場所で共振することなど、普通あり得ない。

ふたつは異なる宗派ではあるが、歴史上、同じ流れに連なる念仏宗でもある。

その違いに決定的な違和感がなかったのは、場所が應典院だったからか、お念仏の大らかさゆえなのか。さまざまな「南無阿弥陀仏」の声が呼応する場で、私は心地よい共鳴を感じたのである。 

この日は、節談説教を直林不退師が説き、現代説法を北海道の僧侶の会「チームいちばん星」が共演?した。後者は、音楽と映像、照明を巧みに活かした「演劇説法」でもある。應典院にはぴったりでした。

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