いつの間にか知らぬ間に。先代三回忌に思うこと。

(2016年09月29日 更新)

早いもので先代秋田光茂師の三回忌を迎え、幼稚園は9月9日に、大蓮寺としては9月11日にそれぞれ三回忌法要を執り行いました。

先代の戒名の一部に「教道」とあります。生前に自分で用意したらしいのですが、宗教教育、幼児教育に奉じた生涯を表しているのでしょう。

「教えの道」というものの、先代は常々「教えない教育」を説き続けていました。先生と生徒の「教える=教わる」の指導関係が確立される以前、教育はもっと生活や暮らしの中にあって人から人へ身体ごと染み込んでいくものであったと。例えば、私たちが日本語を習得していったプロセスがそうであったように、誰から教わった自覚はないが、日々の経験を重ねるうちに、いつの間にか知らぬ間に体得されていく、そんな教育のあり方について考えていたのでしょう。

「門前の小僧習わぬ経を読む」とあるように、仏教の肝心の多くも「教えない教育」を以て承継されていきます。お経、儀礼や作法など、特別に授業や研修があるから身に付くのではない。師匠と弟子が長く活動を共にしているうちに、その技や型が乗り移っていくのであって、今では、お経の読み癖、声の調子や間の取り方まで、「先代さんそっくりですな」と言われます。また、新たな場づくりや文筆家めいたところも、そうしろと指示されたわけではないが、先代の生き方を見て、受け継いできたのかもしれません。

宗教も教育も、「教え」があります。「教え」は多くは上から言葉を以て伝えられますが、その要諦は必ずしも意味や説明よりも、師匠その人のあり方から、いつの間にか知らぬ間に伝わっていくものなのかもしれません。

先代の教えは、私たちの身体の型として記憶されていく。「師資相承(ししそうじょう)」という伝承文化のあり方について、ふと気づかされるのです。