人生の最期をどこで迎えるか。看取り難民という問題。

(2016年09月05日 更新)

私は、人生の最期をどこで迎えるのだろうか? 日本人の多くがそう自問せざるを得ないほど、われわれの死に場所は混沌としている。「看取り難民」というそうだ。

病院死から在宅死へシフトチェンジが、地域包括ケアシステムの最大のねらいだが、そうは簡単に「地域完結型」への移行は進まない。365日24時間体制の在宅医療を、老々世帯や単身世帯でどう実現するのか。「死生観なき」日本人家族に、ぎりぎりの死の判断を委ねることが本当に適切なのかどうか。

看取りもやる特養も増えてはいるが、民間参入の施設には金儲け中心で市場を歪ませているケースも少なくない。かくして「支え手不在の<住み慣れた地域>へ、患者は半ば放り出される」政策側は「地域幻想」に溺れているが、逆に在宅死を中心にどう地域をつくりなおすか、という発想がないと、「看取り難民」はますます深刻化する。

 

さて、今月24日のセミナーで取り上げる「ホームホスピス」である。

ホームホスピスの思想には、予め「(地域)連携」や「地域づくり」が盛り込まれている。「連携」とは、地域の社会資源を利用し、様々な職種と連携していることであり、「地域づくり」とは地域住民との連携、日頃からコミュニケーションを図ることを目指している、という(全国ホームホスピス協会)。

いわば「看取りの家が、地域の中心になる」わけだが、現実はそう簡単なことではなかろう。例えば、静かなあなたの住宅街に、突然ホスピスができるとしたら、あるいは末期患者や家族が日常的に来街するとしたら、諸手を挙げて賛成といくだろうか。失礼ながら、高齢者向けの貧困ビジネス?と誤解されないとも限らない。地域連携のためには、恐ろしいほどの時間と、労力の蓄積が求められる。

それでも私がホームホスピスを支持したいのは、上に書いたような「地域幻想」からの脱却というよりも、いのちを中心に、地域や暮らしをデザインし直すという大きな構想を伴っているからだ。地域に死を抱える、ということはどういうことか。日常の暮らしの中に、死を見るということはどういうことなのか。長く死を遠ざけて来た、日本の地域や家族が生まれ変わる転機なのだと思う。それには、病棟でもない、施設でもない、ホームホスピスという「家」だからふさわしい。日本家屋の縁側や中庭がそうであるように、生と死、聖と俗をつなぐのである。

死は万人が迎えるのだから、多死社会において例外なく日本最大の公共問題だといっていいだろう。死をひと事にしない、誰もが一人称で語り合える、ホームホスピスをそういう広場のような場所にできないだろうか。さらに、医療やサービスだけに寄りかかるのではなく、生き死にに寄り添いながら、大きなものへ拠り所を求めたり、内省を深めるような心の成熟を促せないだろうか。スピリチュアルなまちづくりといってもいい。それは、かつて日本の寺院が果たしてきた役割ではなかったか。

 

ホームホスピス「みぎわ」の櫻井徳恵さんは、「この地元の方が、うちを利用されるまでに10年はかかる」と覚悟している。10年かけた、本物のまちづくり。死にゆく人に、遺族に、地域はゆっくりと育てられるのだと思う。

*櫻井さんを招いたエンディグセミナー「もうひとつの終のすみか」開催します!
9月24日(土)13:30開会 @大蓮寺 詳細は、應典院のウエブサイトまで