保育園は迷惑施設か。子どもは「未来の宝」なのか?

(2016年06月20日 更新)

以前私の幼稚園の大規模改修に着工する際に、隣接するマンション組合に出向いて事前の説明会を開いたことがある。工事中の理解をお願いしたのだが、こちらが心配したほど厳しい意見もなく、会合の最後には老紳士がこう仰った。

「すると、工事の間は、園児さんの毎朝の歌声は聞けんようになるんですな、ちょっとさみしいわ」

幼稚園の園児たちが毎日、園庭に揃う朝礼が、期間中は体育館に移動となる。紳士は、その時の歌声が聞けなくなると言うのである。

「子どもさんの歌声で元気もろてますのや」

その一言で、会合の空気が和んだ。お隣さんとの距離が随分縮んだように思う。

 

保育所受難である。

今日の朝日新聞によると今年4月に開園予定だった保育所が、「住民との調整」不調のため中止・延期となったケースが全国に13園あったという。「静かな地区なのに、子どもの声がうるさくなる」「送迎の車や自転車が危険」「調理室からの臭いが出るのでは」と住民から反対意見が続出する。

「保育園落ちた、日本死ね」のブログがあれほど話題になる一方で、保育所の新設に地域からストップがかかる。かようなギャップに唖然とする。

むろん待機児童問題が深刻で、自治体が整備を急ぐための「説明不足」「合意不足」もあるだろう。しかし、私には、説明を十分尽くしておれば、13園すべて開園できたとは思えない。住民にとって、保育園はいまや「性悪説」に近い存在だ。

少子化という社会はデータ以上に、人々の子どもに対する寛容性を退化させていく。子どもを許容できず、大人の規範をあてはめて、断罪しようとする。声がうるさい、臭いがいやと言われれば、もはや保育園は地下にもぐるしかない。

 

子どもは未来の宝と謳われてきた。子どもの歓声や姿態はそのまま地域の希望でもあった。なのに、われわれは自分の周辺の利害関係だけに閉じこもり、それ以外に関心を寄せることがない。多様性とかグローバルとか言う前に、まず身近な子どもたちにまなざしを向けなくては何も始まらない。子どもという他者に対するリテラシーがひどく劣化しているように感じる。

冒頭の話に戻る。隣りのマンションからも、時々クレームをもらう。子どもの太鼓の音がうるさい。朝のピアノ練習がうるさい。親の車が迷惑駐車をしている……そういう非難や抗議はけっして皆無ではない。しかし、それでも私たちが即座に対応して、善処していれば信頼関係はおおよそ保てるのである。あるいは子どものみならず、朝の職員の玄関前の見回りや、街路の清掃やそういった「地域関係」を大切にしていけば、両者はゆっくりでも共存できるはずだ。そんな積み重ねがあった上での、「元気もろてますのや」のだと思う。

 

地域の迷惑施設といえば、もうひとつ葬儀場が挙る。なぜだろう。誰も避けることのできない生老病死を見ないフリをしているのだろうか。