のんびりできない、日本の高齢者

(2015年10月21日 更新)

昨日、デザイン・クリエイティブセンター神戸で対談の取材があった。お相手は編集者の藤本智士さん。多彩な人だが、いま秋田県のフリーマガジン「のんびり」をプロデュースしている。首都圏とか関西にはない、ローカルな価値を掘り起こし、全国の読者に届けているという。「のんびり」は「non-biri」(ビリではない)の意味も重ねているらしい。

この日の対談テーマは「高齢者」だったので、人生の「のんびり」に話は移った。果たして、日本の高齢者は「non-biri 」なのだろうか。

 

メディアに取り上げられる高齢者は、福祉と医療の対象に過ぎない。下流老人たちは莫大な社会保障の氷山であり、逆にカネがあるとホテルのような終身介護施設をあてがわれる。「迷惑をかけたくない」と終活に奔走する世代も同じ。なかなか「のんびり」できないのである。

究極ののんびり老人に、たとえば小津の映画の常連であった笠智衆がいる。枯淡の境地というか、隠遁者のような存在感は、笠の死後、演じられることはない。役者の不在もあるが、この時代がそういう理想型をもはや受け入れ難いのだろう。生への諦念と死への接近という、若い世代にはどうにも及ばない世代像は、いまはひたすら「弱者」として扱われる。言い換えれば、「成長」を離脱して、別の時間を生きることを許さないのである。

 

高齢者の最大の「遺産」は、残された膨大な「余生」という時間である。「余った人生」とは、つまり成長とも生産、消費とも無関係に生きることである。時間を超越するといってもいい。

芸術とか宗教とか、哲学もそうだが、これら人文科学の世界は、大雑把にいえば、世俗の時間軸では深めることはむずかしい。経済成長という神話に、多くの芸術は貢献できないし、哲学は役に立たない。が、その小さな世界で、俯き加減で生き残っている。

だから、そういうもうひとつの時間の中で、人文世界と巡り会い、「non-biri」できるのではないか。宗教は、確かにそのメルクマールになり得る。

対談の会場は、デザイン・クリエイティブセンターである。ならば、次の仕事はそんな時間と生きること/死ぬことを果敢にデザインすることではないか。

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