子どもは大人の親である。登園の子どもたち。

(2015年04月25日 更新)

パドマ幼稚園の廊下は長く、突き当たりの年少3歳児のお部屋まで、50メートルを超える道のりを行かねばなりません。登園の朝、玄関でお母さんと別れて、ひとりこの廊下を行く年少児たち。入園してまだ3週間、数日前まで玄関エントランスであれほどいやいやをしていたのに、今日はしっかりを前進しています。階段向こうの木のルーバーからは、背中を見つめているお母さんのまなざし。期待もあり、心配もあり、だけど子どもは一度も振り返ろうとせず、すたすたと歩いていきます。表情から、高揚なのか、緊張なのかは、計り知れないのですが、その背中に大きな決意を見るのは私だけでしょうか。健気でもあり、ひたむきでもあり、そして果断でもある。まるで「ぼくは、幼稚園の子どもだ」と主張するように。

 

「子どもは、大人の親である」とは、英国の詩人ワーズワースの言葉ですが、それに倣っていうならば、「幼稚園は、親が子に学ぶ場所である」と思います。

ひたむきであること、のりこえること、そしておそれないこと。そのどれもが、ひょっとして大人のわれわれが忘れてしまったことかもしれない。都合や利害で動くのではなく、自分の役割をしっかりと生きること。私は、幼児期という人間の原初にこそ、学ぶものの大きさを感じるのです。

 

幼稚園は、子どもを規準にして、私たちが自分を見つめ直し、考え直す場でありたい。そう考えます。もちろん子どもの発達は幼稚園最大の目的ですが、それもまた幼稚園だけで成し遂げられるものではない。そこには子どもとともに育とうとする、慎みと励みを知る大人の育ちが伴わなくてはなりません。教職員しかり、親もまたしかりです。

 

今年、幼稚園では、食育や絵本など新しい魅力づくりが始まります。それもまた同じ。幼稚園の食を通して、食とは何かを考え直し、絵本を通して、物語とは、親子関係とは、を問い直す。大人のこころを成熟させていく、そんな希有な場所として、お寺の幼稚園はありつづけたいと私は願っています。

写真