死を語る。表現が持つ本当の力。

(2015年04月13日 更新)

先週、映画監督の河瀬直美さんにインタビューする機会があった。

「萌の朱雀」から「2つ目の窓」まで、いろいろな作品について語り合ったのだが、監督が「こちらとあちらをつなぐ手段が、私にはたまたま映画だっただけ」という発言がたいそう印象深かった。こちらとあちらを、見える世界と見えない世界といってもいい。表現の本質とは、2つに分化された領域を架橋すること、あるいは交通し、交感することなのだ。

 

縁起に基づけば、見えている世界は、見えない世界によって支えられている。死者は生者を支え、活かし、あるいはその欲望を抑止する存在でもある。両者がつながりながら、内省的に共生することで、現代の過剰なエネルギーを他者へと転化させることもできる。死者は生者を鎮める(ケアする)のである。

これまで見えない世界を、対象化してきたものは宗教であった。祈りによって死者を浮かび上がらせる数々の場と儀礼をつくりあげてきたのだが、その役割が次第に退行していくと、人々はそれに代わるものを求め始める。彼方を見つめながら、今をいかに生きるのか、と問い返すのだ。河瀬監督の映画のような、スピリチュアルな表現もそのひとつだろう。

あるいはこうも言えるのではないか。死をイメージする手がかりを医学や消費(終活)に収奪された今、そのような表現だけが物語として死の本源的な意味を伝えることができると。芸術だけではない。文芸や学問、哲学にもそういった本質に気づく表現のコアがあるはずだ。と同時に、そういった総体が響き合う行方に、ひょっとしたら新しい時代の宗教というようなものが生み出されるのかもしれない、とも思う。

 

應典院で長く、芸術の活動をやってきた。なぜお寺でアートなのか。河瀬監督との対話を通して、そのことの意味が少しわかりかけたような気がするのである。