みんな事の死。現代の死生観を考える。

(2015年03月29日 更新)

壇上の医師がはっきりと「医療者の死生観の欠如」を指摘する。ベテランの看護師が「われわれも死生観を勉強する必要性がある」と語る。時代は変わりつつある。そう実感した。

去る3月15日、應典院でセッションを行った。趣旨は「自分らしい在宅死のために」だが、よくある在宅医療の勉強会ではない。スピリチュアルケア師や臨床宗教師がこれからどう医療の現場にかかわるのか、それを意識した語り合いになった。

いろいろ課題も見えたのだが、いちばんの関心は肝心の死生観の学びかただ。

死生観に正解はない。伝統宗教が、死生観の規準になるとも思わない。それほど個別化しているし、拡散している。かつては風土や生活習慣を通して受け継がれて来た死生観だが、いまは「自分らしく」と都合よく選び取られる。多くは合理的であり、納得できるもので、自分が不快なもの、理解できないものを死生観として受け入れることはしない。消費者の感覚だ。

その自己本位性はおひとりさまの時代の顕著な傾向であって、死はますます「私事」として一人称で語られる。だからだろう、他者の死、二人称の死に思いを馳せることができない。それが共通した死生観の形成を困難にしているのではないか。

私の発表では、ふたつの事例を紹介した。大蓮寺の生前個人墓「自然」の取り組みと、應典院のアート活動だ。詳しくはくりかえさないが、共通するのは、他者の死と向き合うという「死の相対化」だ。「いのちと出会う会」で喪失や離別体験を聞くことも、「仏教と当事者研究」」で統合失調症の人たちの表現にかかわることも、損失だけではない、そういうところでしか学べない何かがあるからだ。限界を自覚しながら、たましいを成熟させるといってもいい。とくに死の臨床にかかわる医療者やスピリチュアルケアのワーカーにも、その鍛錬が必要なのではないか。

死を「私事」ではなく、「みんな事」として考えていく。そういう場を無数に積み重ねていく。時間はかかるが、死生観の形成はそこからしか始まらない。