祈り。共生感覚について。

(2015年02月22日 更新)

幼稚園の若い先生へ。

先日、プロテスタントのある幼稚園の保育見学に出向きました。古くからの総幼研加盟園で、おなじみの日課活動などしっかり取り組んでおられたのですが、私が僧侶だからか、朝一番の子どもたちの礼拝の時間にしっかり引き込まれました。

パドマ幼稚園には各教室に仏壇がありますが、こちらには代わりに「今月の聖句」が正面に貼り出されていました。

「神に愛されている子供として/神にならう者になりなさい(エペソ人への手紙五章 一節)」

それを、子どもたちが小さな両手を組みながら、澄んだ声で唱和するのです。

続いて「聖書のことば(マタイ伝五章)」。

「幸いなるかな心の貧しき者 天国はその人のものなり

幸いなるかな悲しむ者 その人は慰められん

幸いなるかな柔和なる者 その人は地を嗣(つ)がん…」

仏教園では般若心経を唱え、キリスト教では聖書を唱える。なぜそうなのか、得心がいきました。小さな存在である子どもたちを立ち向かえる聖句の存在感に、私は圧倒されていたのでした。

子ども時代に出会う言葉は、聖なるものでなくてはなりません。人を煽り、媚び、汚すような言葉とはいずれ嫌でも顔を合わせなくてはならないが、この無垢な時代にこそ聖なる言葉に向き合ってほしい。そう思います。

むろん、美しい言葉、至宝の言葉を幼児のうちに馴染ませるという目的もあります。宗教的情操というねらいもあるでしょう。ただ神や仏の言葉はそういった意図以上に、幼児という生成りの身体に響くことで、言葉が本質的に潜在する「祈り」に気づかせてくれるから、ではないでしょうか。偉人の言葉、というのでは、そうはならない。やはりそこから人知を超えた何かを感じさせるからであって、そしてその心は、幼稚園の小さな仲間たちとの間でこそ通わせるものであってほしい。そう思うのです。

見学した幼稚園での光景もそうでした。担任の先生が静かにピアノを奏でる。幼児たちがみんなで祈りの言葉を読み上げる。汚れを知らない聖なる声が響くうちに、一人ひとりが後ろに退いて、ともに願う同じクラスの仲間どうしが立ち上がるのです。まるで修道士や修行僧たちであるような、同行の集団の輪郭がくっきりと教室に浮かび上がるのです。

祈りとは捧げるということです。自我を無に帰すことであり、私という固有の存在を消すといってもいい。現代は自我ばかりが強調され、すべてにおいて主人公であることを求められますが、生を受けて間もない幼い子どもたちだから、それよりももっとたいせつなこと、他者によって支えられ、守られている「共生感覚」のようなものに気づかされるのではないでしょうか。何かしらの利害を共有して成り立つ共同体以前にあって、ただ生身の存在と存在がつながってともに生きることの原初の感覚は、神や仏への祈りを通してしか知覚できないと思うのです。

私は、私を超えた誰かと出会って、本当のわたしになっていく。幼児期の場合、仲間に出会うとは、そんな共生感覚の萌芽をあらわすのです。

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