父が筆を捨てた日。

(2014年11月04日 更新)

父が亡くなる直前まで、自分の仕事として向き合ってきたのが「揮毫」だった。

色紙や額に飾るようなものではない。お寺でいえば塔婆、幼稚園であれば、子どもたちの歌う歌詞や音読の詩文を進んで清書した。特別な筆耕職を除いて、今頃筆書きのできる人も少ない。老いて言葉が不自由になっても、身体が意思通りにならなくなっても、とにかく揮毫こそわが砦と、最後まで孤塁を守り続けた。
八十歳を前に、園長職を私に譲ったものの、「改革急進派」の私のやり方に陰で溜め息をついていたのかもしれない。いつも意識は一線であっても、身体の衰えとともに現場の仕事から遠ざかっていかざるを得ない。口出しを抑えながら、黙々と筆を運ばせる。生来悪筆の私を尻目に、父は筆を運ぶことに教育者として人生の最期を賭けていたのだと思う。

揮毫はこんな具合で進む。職員室の一角に模造紙の束と硯箱があって、そこへ担任(幼稚園の各クラスの先生)からこれこれの歌詞を書いてほしい、というオーダーがある。視力は衰え、識字も難しい。だからオーダーの原稿も、拡大コピーのような仕様になっている。父はそれを眺めては、紙面を睨み、筆で一行ずつなぞるように書き上げるのである。
模造紙は、担任によってクラスの黒板に貼り出され、それはまるで御影のように納まって、子どもたちのまなざしを集める。

「君と僕とは友達だから、歩いてゆこう歌をうたって
うれしい時も悲しい時も歩いてゆこう 手をとりあって」

模造紙の歌詞は、子どもたちによって歌い込まれ、やがて次の学期へ、次の学年へと歌い継がれていく。原紙は保管されていて、模造紙が傷んでくると、担任たちはまた複製をする。くりかえし、くりかえし。父の揮毫は、幼稚園では不滅なのだ。
父は死んでも、文字は残る。しかも、その数々は未来の人たちによって半永久的に歌い継がれていくのである。何と幸せなことだろう。
父が筆を捨てた日のことを、家人から聞いた。
今年のお盆、ちょうど施餓鬼の塔婆を書いていた頃だ。模造紙同様、塔婆もまた父の担当ではあったが、近年はしばしば文字を誤り、ラインが歪んだ。塔婆の場合、書き損じはできない。父は何度も下書きをして、一字一句をなぞるように清書するのだが、戒名の一文字が脱字になることも少なくなかった。
それでもわれわれ家族は父の登板をいつまでも願っていたのだが、このお盆の間際、それまで塔婆の森に埋もれていた父が、筆を握ったまま、はたと動きを止めたという。塔婆の白い顔をじっと見つめながら、そのまま静止して、大きく溜め息をつくと、席を立って、黙って二階室へ上がっていったのである。
それっきり父は筆を持たなくなった。そして急速に衰えていったようにも思う。
六十年以上、ひたすら書き続けた父が、筆を捨てたあの日、何かを覚悟したのだろうか。父が逝ったのは、それからわずか一ヶ月後のことである。

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