ホスピスの夜

(2014年09月27日 更新)

ホスピスの廊下は、空調が効きすぎて寒い。しかし、時々病室の空気の重さに堪えきれず、その冷気を浴びては、心身を冷ます。そういうくり返しを深夜、何度もやった。

父がホスピスに入院したのは、9月5日のことである。私はその時、アメリカにいて、宗教学の旅の途上にあったのだが、家人から刻々と報じられるメールに眠れぬ夜が続いていた。出国する時は、予想さえしなかった、思いがけない事態だった。

結局私は単身アメリカから、このホスピス目指して飛んで帰るのだが、下見はしていたにせよ、痩せ衰えた父親が無意識なまま病床に横臥している姿は、さすがにショックだった。認知症があったといえ、1週間前には言葉を交わしていたではないか。

「間に合った」という気持ちと、「どうして」という気持ちがないまぜになって、涙が堪えきれなかった。「(遅くなって)申し訳ない」「すみません」と、表情を失った父親に詫びていた。

9月8日と9日は病室に連泊した。ひとりでは限界があるから、と看護師に言われ、娘が入ってくれた。交代で仮眠をとりながら、父を看た。

ベッドの枕元に座って、ずっと父の顔を眺める。目は半眼状態で、口は大きく開いたまま喘ぐように息を吐いている。寝ているのか起きているのか、私には見分けはつかない。時々、手足をさすったりするのだが、嫌々をするように払いのける。

ホスピスの深夜は、女性の時間だ。

深夜の看護師は1時間おきに覗きに来る。時々父の床上の体位を変えるくらいなのだが、その都度、溜まった重い空気が払われるような気がする。呼吸を看るのだろう、脈を測りながら、父の顔をじーっと見つめる間の静寂は、忘れていた時間の深さを思い起こさせる。死の淵に寄り添う女性たちの存在感。

また、私とチームを組んだ娘は、遥かに看護の要領がいい。手足をもんだり、体に挟んだクッションを取り替えたり、甲斐甲斐しく世話に努める。死期でありながら、逆に生気が弾むのはどうしたわけだろう。「おじーちゃん、大丈夫?」という20代の娘の声は、父に聴こえたのだろうか。

11日家族11人が全員が病室に集まった。昨日の点滴が効いているのだろうけど、その分、反動もあるのかもしれない。父は、動かない。

病室のテレビには、幼稚園の園児たちの音楽会のDVDがセットされていて、それが何度もリプレイされている。「生きるってすばらしい」や「今日の日はさようなら」の歌声が、反復されている。ああ、今年の2月にはすすんで子どもたちの歌の指揮を取っていたではないか。

下顎が動き始める。胸の動きがか弱くなる。看護師が「最期まで声は聴こえますからね、みなさんで呼んであげてくださいね」という。もうそろそろということだろう。入れ替わり立ち替わり、皆が父を呼ぶ。母がぼそっと「往こうとしている人を呼び戻してええのやろか」とつぶやいた。

父が息を引き取ったのは、12日午前1時40分である。私と弟とそれぞれの息子たち4人で、念仏した、その最中、父は最後の息を大きく吐いて、逝った。正念往生を遂げたのだ。震えながらではあったが、家族皆で南無阿弥陀仏ができたことが、いま思うとよかったのだと思う。悲しいが、さびしさとは違う。あれほど送別の意を込めた「同称十念」は、私の生涯において最初で最後なのかもしれない。

ホスピスの夜は深い。父の死を他の患者に悟られぬよう、手際よくしかし十分厳かに死後の処置がなされ、1時間もして遺体は葬儀社の搬送車に移った。

通用口に通じる、遺体搬送のエレベーター。最後に見送ってくれた看護師ふたりに礼を述べて、私は少し身震いして車に乗り込んだ。さぁ、夜明けから、動かねば。

ふりかえると通用口の頭上には、木製の十字架が粛然としてわれわれを見送っていた。

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